な顔をして言うた。これは翁が自ら手を入れたものに相違ない。僕はそれを知りたかつたのだ。
 翁の物語で、いろ/\の事情が明白になつた。翁は先づ直訴状依頼の当夜の事から語つた。翁が鉱毒地の惨状、その由来、解決の要求希望、すべて熱心に物語るのを、幸徳は片手を懐中にし、片手に火箸で火鉢の灰を弄ぶりながら、折々フウン/\と鼻で返事するばかり、如何にも気の無ささうな態度で聞いて居る。翁は甚だ不安に感じたさうだ。自分の言ふことが、この人の頭に入つたかどうか、頗る不安に感じたさうだ。偖て翌朝幸徳から書面を受取る、直ぐに車で日比谷へ行つた。時が早いので、衆議院議長の官舎へ入つた。この日は開院式の為めに、議長官舎は無人で閑寂だ。翁は応接室の扉を閉ぢて、始めて懐中から書面を取出して読んで見た。前夜自分の言うた意思が、良い文章になつて悉く書いてある。
『良い頭だ』
と言うて、翁は往事を回顧して、深く感歎した。
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「伏て惟るに、政府当局をして能く其責を竭さしめ、以て陛下の赤子をして日月の恩に光被せしむるの途他なし。渡良瀬河の水源を清むる其一なり。河身を修築して其の天然の旧に復する其二なり。激甚の毒土を除去する其三なり。沿岸無量の天産を復活する其四なり。多数町村の頽廃せるものを恢復する其五なり。加毒の鉱業を止め毒水毒屑の流出を根絶する其六なり。如此にして数十万生霊の死命を救ひ、居住相続の基を回復し、其人口の減耗を防遏し、且つ我日本帝国憲法及び法律を正当に実行して各其権利を保持せしめ、更に将来国家の基礎たる無量の勢力及び富財の損失を断絶するを得べけん也。若し然らずして長く毒水の横流に任せば、臣は恐る、其禍の及ぶ所将に測るべからざるものあらんことを」
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 これが直訴の要領だ。けれど、文章の上に翁の意を満たさない箇所がある。そこで筆を執つて添削を始めた。鉱毒地は広い。被害民は多い。害毒の激烈な処もあれば、稀薄な処もある。黄茅白葦満目惨憺の荒野となれる処もあれば、それ程にまでならぬ処もある。直訴と言ふ以上、その区別を明かにせねばならぬ。
『嘘をついちや、いけねエ』
 かう言つて、翁は顔を振つた。
 文章の添削が未だ容易に済まぬ所へ、予ねて頼んで置いた官舎の給仕が、ドアを明けて、御還幸を告げて呉れたので、未完成のまゝに携へて直ぐに駈け出したのださうである。
『いやはや』
と言うて、翁は両手で頭を叩いた。
 翁の歿後、僕は直訴状の本物を見たいと思つた。幸徳の書いた上へ翁が筆を入れた本物を見たいと思つた。何処にか存在するに相違ないと、窃かに心当りを尋ねて居ると、それが一度田中家の養女になつたことのある、翁の実の姪に当る原田武子さんが持つて居ることがわかつた。美濃半紙に書いて、元は簡単に紙ヨリで綴つてあつたものを、立派に表装して巻物になつて居る。筆者を偲んでその肉筆に対すると、見たゞけで、胸に熱気が動く。
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「草莽の微臣田中正造、誠恐誠惶、頓首頓首、謹で奏す。伏て惟るに、臣田間の匹夫、敢て規を踰へ法を犯して鳳駕に近前する、其罪実に万死に当れり。――伏て望むらくは、陛下深仁深慈、臣が狂愚を憐みて、少しく乙夜の覧を垂れ給はん事を」
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 これが冒頭の原文だ。すると、翁の神経にこの「狂愚」の一語が触れたものと見え、狂の一字を墨で消して「至愚」と修正してある。これを見て僕は様々な事を思ひ出した。翁が始めて直訴を行つた時、世間はこの事件の成行を懸念して重大視した。然るにたゞ一夜警察署に泊まつたのみで、翌日翁は仔細なく解放された。世間は再びその案外の軽易に驚いた。これは政府側の熟慮の結果で、「狂人」として取扱つたものだ。以後、田中正造の言行一切が「狂人」として無視されることになつてしまつた。
『政府の野郎、この田中を狂人にしてしまやがつた』
と言つて、翁は、笑ふにも笑はれず怒るに怒られず、その奸智に嘆息されたことを、僕は覚えて居る。
 僕は翁の直訴には終始賛成することが出来なかつたが、その行き届いた用意を聴くに及んで、深き敬意を抱くやうになつた。
『若し天皇の御手元へ書面を直接差出すだけならば、好い機会が幾らもある。議会の開院式の時に行れば、何の造作も無い事だ。然しながら、議員の身でそれを行つたでは、議員の職責を侮辱すると云ふものだ――』
 翁は粛然として曾てかう語つた。
 武子さんの話を聞くと、用談云々の端書が来たので、直訴の前夜、芝口の宿屋へ尋ねて行つたさうだ。行つて見ると、別に用談の景色も無い。翁は目を閉ぢて独り何か冥想して居るのみで、さしたる用事のあるでも無いらしい。帰らうとすると、『も少し居よ』と言うて留める。けれど何の話があるでも無い。夜が更けるので、遂に立つて帰つた。
『私が帰つ
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