明治四十年六月二十九日
 佐山梅吉、小川長三郎、川島伊勢五郎
六月三十日
 茂呂松右衛門
七月一日
 島田熊吉
七月二日
 島田政五郎、水野彦市
七月三日
 染宮与三郎、水野常三郎、間明田粂次郎、間明田仙弥
七月四日
 竹沢鈎蔵、竹沢房蔵、竹沢庄蔵
七月五日
 宮内勇次、渡辺長輔
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 七月五日には鉱毒婦人救済会の矢島楫子、島田信子の両夫人が見舞に見えた。七日には兇徒嘯集事件の弁護士花井卓蔵、卜部喜太郎、石山弥平、今村力三郎その他多数の見舞客があつた。花井君等の一行を見送つて古河駅への舟中で、誰か手にせる白扇を開いて、翁の揮毫を求めた。翁は腰から矢立を抜いて、筆を持つてしばし文句を案じて居たが、忽ちサラ/\と書いて投げ出した。見ると墨痕鮮やかに、
「辛酸入佳境」
 翁は両手で長髪の頭を叩いて、カラ/\と高く笑つたが、船中の人、皆な目を伏せて、誰れ一人顔を上げるものが無かつた。
 翁時に六十七。

   聖人論

 明治四十二年の夏、或日、翁から一封の郵便物が届いた。例の書状とは違ふ。開けて見ると、一冊の手帳に、大きな字で一杯自在奔放に書き散らしてある。一読僕は愕然として目を見張つた。これは「谷中村破壊」と云ふ大割礼を受けた翁の自画像だ。僕は今この一篇の大文章を抄出して、君の熟読を求める。
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「独り聖人となるは難からず。社会を天国へ導くの教や難し。是れ聖人の躓く所にして、つまづかざるは稀なり。男子、混沌の社会に処し、今を救ひ未来を救ふことの難き、到底一世に成功を期すべからず。只だ労は自ら是に安んじ、功は後世に譲るべし。之を真の謙遜と言ふ也」
「人として交はるは聖人に如くは無し。然れども神にあらざれば聖に至らず。聖は神に出づ。故に古来聖にして、天を信じ神を信ぜざるは無し。憐むべし、凡庸の徒、神を知らず。知らざれば信ずるに由なし」
「神の姿、目あるものは見るべし。神の声、耳あるものは聞くべし。神の教、感覚あるものは受くべし。此の三者は信ずるに依りて知らる」
「目なき者に見せんとて木像を造る。木像以来、神ますます見えず。音楽以来また天籟に耳を傾くるなし」
「聖人は常の人なり、過不及なき人なり。かの孔子が常あるものを見ば可なりと言はれしは、狭義の常にして予が言ふ所の常は広大の常なり。意は一にして大小の差あり。今世の人の常識を言ふは、多くは是れ神を離れたる常識、天を畏れざる常識、信仰なき常識のみ。是れ真理に遠き常識なり。真理を離れたる常識は即ち悪魔の働となる。常の一字難いかな」
「眼鏡のゴミの掃除をのみ専業とする者あり。眼鏡は何の用か。物を見るに在り。物を見ることをなさずして、只管眼鏡をコスリて終生の業とす。夫れ神を見るは眼鏡の力に非ず。仏智は心眼と言ふ。心を以て見るに、尚ほ私心を免れず。口に公明と言ひ誠大と言ふも、力よく聖に到らざれば心眼明かなりと言ふこと能はず。聖も尚ほ之を病めり、聖なればこそ之を病めり。常人は病ともせざるなり。私を去り慾を去り、正路に穏かに神に問ふべし、我が信によりて問ふ所、神必ず答ふ」
「人若し飽くまで神を見んと欲せば、忽にして見るべし。誠に神を見んと欲せば、先づ汝を見よ。天を仰ぐも未だ見るべからず。精を尽し力を尽して先づ汝の身中を見よ。身中一点の曇なく、言行明かにして、心真に見んことを欲す。然る後に見るべし。神は木像にあらず。徒らに神の見えざるを言ふ、其愚憐むべし」
「既に神を見んと欲せば、先づ汝を見よ。汝を見て克く明かなり。仰で天を見よ。天の父も母も皆な見ゆ。天地一物、神一物。我は分体にして神の子なり」
「偶々聖に似たるものあれども、一人の聖、独りの聖のみ。独立の成人なく、世界を負ふの聖人なし。故に我は我を恨む。我力の弱き、我信の薄き、我精神の及ばざる、我が勇気の足らざるを恨む」
「罪、汝が身に在り。寸毫も他を売るの資格なし。是れ予の熱誠、是れ誠に予が神を見るの秘訣なり。人生最上の天職は神秘の発明に在り。神秘研究の方面また甚だ多からん。予が神秘の要領は、即ち神を見るにあり」
「到底日本は狂して亡び、奢りて亡び、勝ちて亡び、凌いで亡び、詐りて亡び、盗んで亡ぶ、最も大なるは無宗教に亡ぶる事なり。誰ぞキリストの真を以て立つ人なきか。世界を負ふの大精神を有するもの無きか。予は在りと信ず。無しと言へば無し。在りと言へば在り。信の一のみ。神と共にせば、何事の成らざるなし。是れ億兆を救ふ所以なり」
「世界的大抱負は誠に小なる一の信に出づ。此の小や、無形にして小とだに名づけ難しと雖も、而かも天地に充ち、自在にして到らざる所なし。神ともなり、牛馬ともなる。世人此の易きを難しとして学ばず。予の悲痛苦痛、此処に在り」
末尾にかう書いてある。
 明治四十二年七月七日
  古河町停車場田中屋
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