の休息室にて書 正造
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その文章と云ひ筆蹟と云ひ、一気呵成、所謂インスピレーシヨンの所作だ。この当時、翁は僕の態度に対して甚だ不満を抱いて居た。僕が一切世間に背を向けて逃避の生活に落ちて居るのに対し、少なからぬ不満を抱いて居た。さればこの文章をワザ/\郵便で送り越されたこと、必定訓戒の深意を含めてあるものと推察し、一層難有く拝読驚歎した。その次ぎにお目にかゝつた時
『あゝ云ふものが、どうしてお出来になりましたか』
と聞いて見たが、翁は、
『何だか死ぬるやうな気がして、たゞ無暗に書いて見たのです』
かう云ふ返事であつた。
岡田虎二郎に逢ふ
明治四十三年。――八月三日付の翁の端書が来た。表面に「不急の土用消息」と大書してある。
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「一昨日、埼玉の川辺利島、茨城の古河町の南新郷村を見たり。本年、今日まで洪水なく、気候十分、田の稲は色黒きまで濃く茂りたり。無事ならば、三ヶ村四十万円の収入ならんと云ふ。然るに此三ヶ年一粒の得るなきは、利根川流水妨害工事の為めなり。本年の気候は妨害工事の功力もなし。面白し/\。たゞ目出度取らせたいです。
予正造も大納涼の主義を取れり。天地の広き、山川原野樹林の多き、出れば必ず風あり。就中、田の草を取る農民は、実利的納涼の本旨を得たるものなり。何ぞ家に在りて団扇を用ひんや。世の大家大庭を作造するは、其為の小なるを証するのみ。大寺大伽籃[#「大伽籃」はママ]また殆ど無用と存候。如何可有之也」
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然るにその頃から霖雨が始まつて、次で関東河々の大洪水が来た。僕は三河島の町屋と云ふ小農村に閑居中であつたが、丁度九日の夜の大風で、翌朝カラリと一天晴れ渡ると、午後俄然として濁流が押し寄せて来た。水脚の早いこと、忽ちの間に水は床上へまで上がつてしまつた。夜まで水量は増す。田や畑の上を舟で往来する。――水は引いたが未だ畳も敷かぬ二十三日の昼頃、思ひもかけず田中翁が見えた。袴の股立を高く取り上げ、杖の先へ草簑をくゝつて肩に担ひ、足袋はだしと云ふ軽装。水害の視察だ。今朝古河を立つて、北千住で汽車を下り、途中浸水の迹を見ながら来たと云ふお話、急に二三枚畳を半乾きの床上に竝べてこの良客を迎へた。
翁は早速、懐中から半紙を取り出し、腰の矢立を抜いて、慣れた手付で河々の地図を画き、近年洪水の説明を始めた。東京の洪水をたゞ荒川の氾濫とのみ思ふは大間違で、つまり利根川氾濫の余勢だと云ふ結論であつた。七十の老翁、何せよ、大した元気だ。
『深呼吸と運動で、何十年のリウマチを、到頭退治てしまひました』
かう言ひながら翁は、その痛んだ方の太い腕を高く上げたり、背中へ廻したりして見せた。僕は好い機会と思つて翁に勧めた。
『岡田虎二郎氏にお逢ひになつては、どうです』
すると翁は、うるさげに顔をしかめて、
『何分、どうも、忙がしうがして――』
僕は直ぐ外の話に移つた。それから枕を出して少し休息を勧めた。翁はゴロリと障子口に横になつて、忽ちグウ/\と安らかな大鼾き。僕は団扇で蠅を追ひながら、ツク/″\この巨大な老戦士をながめた。
やがてポカリと眼を開いた翁は、物影を長く地に引いて、夏の日の傾き行く空を見て、
『や、これは寝過ごした』
と言ひながら、急ぎ起き上がつて、帰り支度にかゝる。
『お泊り下さるんぢや無いんですか』
と、晩餐の支度をして居た妻が、台所から顔を出したが、
『今日中に番町まで行つて置かぬと都合が悪るい』
かう言ひながら、袴を締めなほし、足袋をはいて、さつさと出掛けてしまふ。村外れまで見送るつもりで、僕も一所に出た。丁度、村の人達が市中の肥料を汲んで帰る時刻で、向うから車がつゞいて来る。父親や良人の車を、盲縞の仕事着に手拭で髪を包み、汗も拭はず好い血色した娘や若妻等が、勇ましげに車の後押をして来る。それを見て、翁は始めて担つて居る草簑の由来を物語つた。翁が所持の草簑は、先月三日谷中村破壊三年の記念会の折、翁からの依頼で、僕がワザ/\この村から持つて行つたのだ。この前翁が僕の村へ見えた時、丁度雨で、若い婦人達が簑笠で働いて居たその姿が如何にも元気で美くしく見えた。翁は自分もこの簑を着て見たいと心が動いたのださうである。
『所で、わしが着ると、まるで百姓一揆のやうで、余り好い恰好でねい』
かう言つて、翁は真面目な顔して笑つた。僕は覚えず噴き出して笑つた。この機会に僕は又勧めて見た。
『岡田氏へ行つて御覧になりませんか』
すると翁の顔は忽ち曇つて、
『何分、時が無くて――』
翁は岡田と云ふ人を、その頃流行の催眠術か何かの如く思つて居たらしい。僕は直ぐ別な話をしながら、小川に沿うて曲り曲り歩を進めた。何時の間にか、村界の小橋へ来た。こゝで別
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