何でございませう。諸君が日常御心配下ださる事は、これに似寄つたことばかりで、格別珍しいと思召さぬか知りませぬが、私は一昨年以来、この谷中村へ這入り込んで居りまして、この村の一例から観察しますと、決して日本と云ふものは在るもので無い。何が日本であるか。戦争などは何の為めにするか。政府たるものゝ人民に対する仕事が、実に戦争の有様である。」
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 谷中村破滅の時が切迫した。それは政友会内閣が成立して原敬が内務大臣となつたことだ。日露戦争に依て寿命を延ばした桂内閣は、戦争の終局、媾和条約の非難に堪へ切れず、明治三十九年の元朝、媾和全権大使小村寿太郎の帰朝を待ち受けて総辞職に及び、一月七日、政友会総裁西園寺公望が立つて総理大臣となりかくて原敬が内務大臣となつた。これより先き明治三十六年四月足尾鉱山主古河市兵衛が七十二歳で病死、養子潤吉が相続したが、病弱で役に立たない。三十八年、組織を変へて「古河鉱業会社」となし、潤吉を名儀上社長に据ゑると同時に陸奥宗光との関係上、原敬が推されて副社長となつた。而して今や、内閣の更迭を機として、出でて内務大臣となつた。抑も明治廿四年、議会に始めて鉱毒問題が提出され、時の農商務大臣陸奥宗光が、これに対する政治的画策を建てた時、原敬は陸奥の秘書官であつた。爾来こゝに十五年、今や原敬は一方には古河鉱業会社の実際的社長として、一方には日本政府の内務大臣として、「鉱毒問題」をば一指弾の下に政治的に抹殺する機会が到来した。
 看よ、その四月、栃木県知事は谷中廃村の手順として、左の諮問案を出した。
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  町村合併に付諮問   下都賀郡谷中村
下都賀郡谷中村は、瀦水池設置の必要上其土地家屋等大半を買収し、村民を他に移住せしめたる為め、将来独立して法律上の義務を負担するの資力なきに至れるものと認むるに依り、谷中村を廃し其区域を藤岡町に合併せんとす。
右諮問す。
 但本月十六日迄に意見答申すべし。
  明治三十九年四月十四日
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[#地から2字上げ]栃木県知事 白仁 武
 十四日にこの文書が県庁を出で、それから村会を開いて、十六日迄に答申せよと言ふのだ。今日の法律は如何か知らぬが、その頃の町村制には、
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「町村会の招集竝に会議の事件を告知するには、急施を要する場合を除くの外少くも三日前たるべし。」
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 かう書いてある。「町村合併の諮問」が「急施を要する場合」とは如何なる三百代言でも赤面して言ひ兼ねる事だらう。この時谷中村は既に自治制が半ば破られて郡書記が派遣されて村長職務管掌と言ふことになつて居た。この職務管掌の手で十五日、即日村会開会の招集状が配達された。引き継ぎ第二の招集状が配達された。これは当時の町村制に、第二回招集状の村会は、出席議員が規定に達しなくとも、開会することが出来るとある法文を逆用し、かくの如き詐偽方法に依て、直に第二回招集状の村会と云ふことに表面を糊塗した。この日県庁からは保安課長が出張し、多数の警官で、この小さな村会を取り巻いた。村会は諮問案を否決した。けれど村会の意思などが眼中に在るのでは無い。
 六月八日、田中正造は予戒令を執行され、七月一日、藤岡町合併の事発布され、この日以後「谷中村」と云ふ名儀は法律上永く消滅することになつた。
 君よ。考へると寧ろ微笑を催したくなることがある。曾て陸奥宗光の外務大臣時代、日本の漁船が朝鮮近海で、難船した一件で、一議員が衆議院でその遭難の人数を質問した。その時たしか陸奥の下に通商局長であつた原敬が、政府委員として演壇に進み、「二十数名」と手軽く答弁して席に返らうとした。質問者もこの答弁に満足したと見えて、黙つて居たが、『議長々々』と連呼して田中正造が議席に立つた。『二十数名とは何事だ。二十数名とは何事だ』――彼は政府委員が人命を軽蔑する傲慢の態度を罵倒して、正確な遭難者の報告を要求した。原は真赤な顔して堪へて居たが、理の当然に余儀なく失言を謝し、改めて調査答弁するを約して退席した。その原が今内務大臣の椅子に坐して、僅に眉を動かせば、一県の知事が、白昼公然、この法律蹂躙の醜態を演じて恥辱ともしない。
 さて谷中の堤内には、遂に十六戸の農民が居残つた。政府は暴力を以てこの家屋を破壊することになつた。これが今も世に伝唱される「谷中村の破壊」と云ふのだ。この前後に於ける田中翁の心――蒼き淵の如き深さ、絹糸の如き細密さ、その壮厳さ、その痛ましさ、これは到底僕のやうな粗末な筆に描くことは出来ない。
 県庁からは、警察部長が警部巡査人夫の一大隊を引率して乗り込んで来た。僕は一切を略して、その戸主の名とその破壊の日取とをのみ記してこの記事を終る。
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