る。隣地藤岡町に県庁の「栃木県瀦水池設置処分事務所」の看板が掛かつた。かくして翁は、全く着のみ着のまゝの姿となつて、この鉱毒事件の犠牲者谷中の農村へ一身を投げた。
世は日露戦争の狂熱で、たゞ外へのみ目を奪はれて居る間隙に乗じ、この谷中村と云ふ一小村は、地獄の如き苦悩に襲はれた。こゝに明治三十九年の四月、翁が寸時も抜き難き足を村から抜いて、新紀元の日曜講演会と云ふ一小集会で、切迫の状態を訴へた演説の一節を、君に一読して貰ふ。
[#ここから1字下げ]
「世の中では、谷中村買収問題は、四十八万円で人民の所有地を買ふものだと言つて居る。大間違である。四十八万円と云ふ金は幾らか田畑にも渡さうが、この金の性質は、実際人民をして流離顛沛乞食たらしめる運動費である。こんなことが世の中にある。これだけでは御わかりになりますまいから、少しく理由を申上げます。
一体人民が、何故たつた四十八万円ばかりの金で、村を売るかと申しますと、これには種々な御話がある。一体この村の価と云ふものは、若し金にして言へば、現在七百万円がものはある。この七百万円と云ふ品は、何年の間にこしらへたかと言ひますと、四百年からの物である。四百年の間に人民が段々と積立て来た。そこに残つて居るものが、今日現場で七百万円以上が物はある。現にこの村で、一ヶ村を守る堤防費も、新築するとなると三百五十万円かゝる。この外田畑、宅地、立木――容易なものでない。然うでがせう、今日の戸数が四百五十戸ある。四百五十戸の村をこしらへるのですから、二三百万円で出来るもので無い。されば現物七百万円がものがあるから、七百万円で買つたら穏当のやうだ。一寸考へると、七百万円で売れば可いやうでございます。七百万両がものはあるから七百万両で売つたらドウだと言ふと経済を知らぬ人民は大喜だが、七百万両の村を捨てゝ新しい村が其金で出来るかと言ふと、それは出来ない。それを僅か四十八万両で買ひ潰すと云ふのは、買ふのでは無い、村を取る運動費に過ぎないのである。それで、これまでに皆な僅かな移住費を与へて、人民を四方へ追散してしまつた。然らば何故に人民が然う政府の言ふことを聴くか。余り意気地の無い人民では無いか。かう諸君の御軽蔑もございませうが、これは深く謀つたことで、これを少しでも御訴へ申したくて出ましたから、暫く御猶予を願つて御話したいのでございます。
谷中村を買上げると云ふことは、三十八年即ち昨年の事です。然るに三十五年の洪水に堤防の切れたを幸として、堤防をこしらへずに居りました。当年まで五ヶ年。堤防がございませぬから水が這入つて作物が取れない。非常な借金をしたり艱難辛苦してやつと生活を繋いで居る。所で三十七年末に県会が谷中を買収すると云ふやうな意味の決議をした。夜分十二時頃、何を話したか秘密会で決めた。それが買収の事である。これを地方の新聞へ出した。畑は三十両、田は二十八両と云ふ値を付けた。かう云ふ値をつけて新聞に出しましたから、最早、売買が止まつてしまつた。直ぐ隣村の田地が二三百両する所へ、こんな値段で広告してしまつた。県庁で買ふことになつた地面でありますから、売買を禁じたも同然である。――斯様に多年衣食の道を妨げ金融の道を塞いで、そこで一方に、此処へ来い買つてやると云ふことを始めた。仕方が無いから人民は逃げ出すのである。逃げ出すについて、何程なりとも銭を持つて行きたい。田地を提げて逃げることも家屋敷を脊負つて逃げることも出来ないから、何程とも御授次第の銭を貰つて、他所へ行くと云ふことになつた。
それは実に非常な有様で――昨年の八月以来、谷中村を買上げると云ふことになりますと、また一層ヒドイことをやつた。色々の商人を村へ入り込ませた。これが流言家である。先づ古道具商人を凡そ百人も村へ入れました。道具を売れ、近い中に家を打壊はされるさうだから早くお売りなさい、政府の言ふことを聴くものも聴かないものも皆な打壊はすさうだから今の中に早く道具を売れ――かう言つて運動する。屋敷の木を売れ。鶏も用が無からうから売れ。船も此処に居ないとなれば不用だらうから売れ――種々な商人を何百人も入り込ませて、無智の人民を狂乱させてしまつた。それから村の中へ七人の悪党を入れて、非常な流言を放たせて、人民を騒がせて歩く。さうなくともこの三四年、人民は借金が出来て居る。そこで其の金貸へ手を廻はして、非常な催促をさせる。三百代言を入れて、さア寄越せと云ふ。田地を抵当にしようとしても取り手が無い。売らうとしても買手が無い。金融を塞ぎ、食物を奪ひ、この村に堤防は永世築かないと云ふ公文書まで発して、人を迷はす。人民が発狂するのも無理はない。殆ど狂人のやうになつて村を逃出す。逃出すについて、何程でも銭が欲しいと云ふ所へ、僅の銭を与へるに過ぎぬ。
諸君如
前へ
次へ
全12ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング