と。是に於て一毛の私心万益を破るの道理に基き、先づ姉妹の負債を返却し、謹で一書を老父の膝下に捧げ、こゝに再び財産を犠牲に供し、一身以て公共に尽すの自由を得んことを請へり。其要に曰く
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一、今より後、自己営利事業の為め精神を労せざる事。
一、公共上の為め毎年百二十円づゝ三十五年間の運動に消費する事。(此予算は、後に明治二十二年以来選挙競争の為に破れたり)
一、男女二人の養児は、相当の教育を与へて他へ遣はす事。
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 書中又た述べて曰く。正造には四千万の同胞あり、天は我が屋根、地は我が床なりと。予窃に老父が容易に許可を与へざるべきを思へり。然るに老父是を見て喜色満面、曰く嗚呼能く此言をなせり、汝の志や可し、只だ能く是を貫き得るや否やと。乃ち老筆を揮て古人の狂歌一首を書して予に示す。
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死んでから仏になるはいらぬ事
   生きて居る中善き人になれ
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 予感激、斎戒、実行を神祇に誓ふ。」
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 時に明治十二年、三十九歳。爾来二十余年の政治生活。初めの十年は、明治十七年に、県令三島通庸の暴政に対して、これが糾弾の為めに死地を往来し、後の十年は、帝国議会の開会と共に、鉱毒問題を高唱して一日の閑天地に憇ふことも出来なかつた。何事ぞ、今国家刑罰権の恩恵の為めに、四十日と云ふ豊かな安息時を監獄の一室に与へられ、青年基督の生涯に照して静かに我が六十年の苦難の瘡痕を点検し、更に我が真使命の何処に存在するかを黙想することが出来た。
 出獄後の翁は「陸海軍の全廃」を唱へた。また聖人の出現を夢想した。これは爾後常に翁の胸に燃えて居たことで、日記を見ると、折々思ひ出したやうに書きつけてある。明治四十四年の日記中にもかう書いてある。
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「我れ、去る三十七年の春、神田の青年会館にて、新学生歓迎の演説に曰く、東洋に聖人が生まれ現はるゝ也。但し其の以前に一度日本は亡ぶ。其時までは、個々専門に励みて其道の聖となるべし。翌日一学生来り問ふ、何の証拠ありて昨夜の如き事を述べしやと。予答、只だ我心に思ふのみと。」
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 此頃の詠歌一二。
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雨風のために変らで雨風と共にはたらけ
我は雨風
我国をはいづる虱よく見れば彼も造化の
手足なるらん
降る雪よやみかたなくば積もれかし我はふみ立て
けたて行くべし
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   谷中村破壊

 今も世間で偶々田中翁の事を語る時に「谷中村の破壊事件」を言ふ。けれどもこの「谷中村の破壊」と云ふ一語に何が含まれて居るかを明瞭に知る者は殆ど無い。これは翁が老後而かも最も細密な苦辛を嘗めた事件であるが、茲には極めて大体の輪廓を語る外に道が無い。
 翁は嘗て議会で、足尾鉱毒事件は最早渡良瀬川沿岸のみの問題では無く、既に江戸川の問題であり、東京府の問題であることを叫んだ。政府は江戸川の上流関宿の口を狭めて、利根川の下流を渫ひ、更に渡良瀬川が利根へ合流する口を拡げて、洪水の時には大きな利根の水が渡良瀬の水を押へてこれを何十里逆流させ、以て江戸川の氾濫を禦ぐ策を立てた。そこでこの渡良瀬川の逆流洪水を緩和する為めに渡良瀬の下流谷中村一帯の農村を亡くして、大遊水池を造ると云ふのである。政府が治水会と云ふものを設け全国河川の改修諮問案を出した中に、この渡良瀬改修案をも加へてある。治水会の会員には官吏技師議員など網羅してある。田中翁は絶叫した。『これは銅山党の奸策だ。鉱毒問題を治水問題に塗り変へる銅山党の奸策だ。』
 けれど翁のこの熱弁に耳を仮す者は恐らく一人も無かつたらう。のみならず、今や渡良瀬川沿岸の鉱毒地ですら、一には多年の疲弊の為め、一には目前逆流洪水の損害を免れる為め、この政府の渡良瀬改修案、即ち、谷中村亡滅案を歓迎する情態で、現に彼の兇徒嘯集罪の英雄等すら、この渡良瀬改修案の餌の為めに、多年の首領田中正造に楯を衝くことになつた。
 明治三十七年末の栃木県会に於て、知事は政府の命令に従て堤防修築費の偽名の下に三十六万円の谷中村破壊追加予算案を県会最後の日に提出した。この間秘密の運動あり、深夜開議、質問もなく答弁もなく、全会闇黙の裡にこれを可決通過した。この県会の決議を待つて、政府は衆議院へ「栃木県災害土木補助費二十二万円」の臨時予算を提出し、議会は無造作にこれを通過した。翁は東奔西走した。けれど翁の『銅山党の奸策』は殆ど全く何処にも反響しなかつた。寧ろ田中の狂激として却て到る所に反感を買つたに過ぎなからう。この政府の補助費二十二万円の中十二万円が谷中亡滅費に加へられるので、即ち谷中村破壊費用総計四十八万円と云ふことであ
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