られたるまゝ、江刺県の本庁へ護送された時、その中間に上下八里の七時雨峠と云ふがある。盛岡から北を望むと、岩手姫神両嶽の間に横はる高原の奥に、サヾエ貝を伏せたる如く尖つた峰が見える。こゝを越す時の翁の歌がある。
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後ろ手を負はせられつゝ七時雨
しぐれの涙掩ふ袖もなし
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この奥州の寒地に於ける翁が獄裡生活の一片を、自叙伝の自筆草稿より抜抄す。
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「さて、此地の寒気は、人も知る如く、人並みの衣服を纏へりとも、肌刺されて耳鼻そがるゝばかりなるに、冬の支度の乏しきに寒気俄に速に進み来り、故郷は山川遠く百五十里を隔てゝ運輸開けず、県庁の御用物すらに二個月に渉りて往返せる程なれば、衣類を故郷より取寄せんこと、囚人の身として迚も迚も覚束なく、また間に合ひもせぬ気候の切迫、いかゞはせんと案じわづらひける折柄、偶々囚人の中に赤痢を病みて斃れたる人ありしかば、獄丁に請ひて、死者の着せし衣類を貰ひ受けて、僅に寒気を凌ぎけり。此年、此獄中の越年者中、凍死せる者四人ありき。」
「獄中に書籍の差入もなく、只だ黙念するのみなれば、予は記憶力乏しきより難儀に至る事少なからざれば、茲に記憶の工風凝らして一種の発明せしものあり。此事長ければ略すと云へども、要は只だ専門と云ふに外ならず。他の事は忘れよ、予が記憶乏敷性来にて、二課以上を兼ぬるは過りなりと。故に予は出獄以来、何事も兼ぬる事をば避けて為さゞるなり。」
「予は又た幼年の頃よりドモリにて、談話と喧嘩の区別なく、議論も常に喧嘩と同一に聴取られて、其身を禍ひすること多ければ、せめては少しく弁舌ドモらざる迄の研究をせばやと思ひしに、偶々中村敬宇が訳書西国立志編の文章、舌頭に上り易きを幸とし、一語邁返、舌頭錬磨、研究殆ど年余、他日獄を出でて人に接し、始めて其功の著しきを知れり。」
「明治七年四月、一日突然呼出だされぬ。県令島惟清(此時県の併合ありて岩手県)厳然訟廷に現はれ予に申渡す事ありとて、
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『其方儀、明治四年四月某日以来、江刺県大属木村新八郎暗殺の嫌疑を以、入獄申付吟味中に候処、此度証人等申立により、其方の嫌疑は氷解せり、爾来取調に及ばず、今日無罪放免を沙汰す。』
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入獄三十六ヶ月と二十日なり。」
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かくて三十四歳、青天白日の身となりて、久々にて故郷へ帰つて見れば、母はこの三月九日に亡き人の籍に入つて居た。翁に取て如何ばかり悔恨の痛事であつたことぞ。
君よ。僕は田中翁が一身を政治運動に投じた動機に就て、君の深き理解を求める為め、自叙伝の草稿からその一二節を抜書きする。
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「明治八年、正造、隣村酒屋の番頭となり、家族及親戚朋友の為に自ら模範者となり、樽拾ひまでに尽力せり。一日、夏天、黒雲低く暴雨来らんとす。馬に石灰を積みたる馬丁、店頭に銅貨二銭を投じて酒を出せよと叫ぶ。正造其馬を見れば、背に汗して淋漓たり。正造おもへらく、今雨来らば此馬や病気せんに、憎むべき馬丁よと。依て汝は何人の雇人なりやと問ふ。馬丁答へて、此方は足利郡稲岡村武井の作方奉公人なりと。正造更に、汝の名を言へ、汝は、馬は主人のなれば、今将に雨降らんとするに不拘酒を呑まんとす。馬の汗かきたるを知らざるか、汗かきたる背に雨をうたせば馬は忽ち病気せん。主人の荷、主人の馬、汝之を愛せざるか。明日主人に、此旨を通ずべし、と罵りければ、馬丁の恐怖一方ならず、二銭の銭を取戻して、酒を呑まずに馬に鞭打ちて出て行きける。偖て此話の広く伝はりて、正造は酒屋の番頭には不適当なりとの誹謗攻撃至らざるなく、終に主人茂平も正造に暇を出すの都合とはなれり――」
「十年、西南戦乱に伴ふ紙幣濫発の事あり。予思へらく、物価必ず騰貴せんと。乃ち十年前六角家事件にて貧困せる正義派の疲弊を回復せん為め、勧めて田畑を買入れしめんとす。皆な冷笑して曰く、正造既に産を破つて且つ世事に疎し、酒屋の番頭を勤むる二年、僅に差引勘定を学べるに過ぎず、彼が経済の空論信ずるに足らずと。是に於て予は自ら成敗を試みて朋友に示さんと欲し、父妻に謀て、土蔵納屋を始め、父祖伝来のガラクタ道具を売却し、姉妹の財をも借り加へて僅に五百両にまとめ、病床に在て徐々に近傍の田畑を買入れたり。未だ数月ならずして地価は俄に上騰し、二倍となり四倍となり六倍七倍となり、遂に十倍以上となりて、容易に三千余円を儲け、以て父祖の財産を復し得たり。父祖の財産復旧す。予思へらく、普通脳力を有する者ならんには、一方に営利事業にたづさはり、一方に政治の事に奔走するを得べきも、如何せん予が脳力偏僻にして之に堪へず。如かず、一刀両断、一身一家の利益を抛つて政治改良の事に専らならんには
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