遙に洋笛の声、枕に響く。我家に程近き松本音楽隊の練習なるが如し。
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ふくる夜の、笛の遠音を、心あてに、家路の空を、思ひこそやれ。
    ○
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鼠の足音に驚きて眠醒めたり。鼠の来るべき所ならねば、疲れし身の夢なりしかと、自ら思ひ惑ひしが、明くる朝起きて着換へんと棚の上なる新衣を披けば、襟の番号札破れて、鼠の歯の痕、あざやかに残れり。夜半の足音は夢にてはあらざりけり。此処にては、衣の襟に一々番号札を縫ひ付け、姓名を言はずして第何番と呼ぶこと、官署の規則なり。我が身、針持つこと拙く、番号札縫ひつくること煩はしければ、飯粒もて糊付け置きけるに、鼠の如何にしてかその香を嗅ぎつけゝん、忍び来りて、鋭き歯もてその糊を剥ぎ取りけるなり。驚愕するものから、且つは興深きことに覚え、晩食の飯粒わざと残し置きて、窃かに鼠の音づれを待ちわぶる身となりぬ。
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木枕の、わびしき宿も、君来やと、待つに、物をば思はざりけり。
    ○
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墻外虫声切々
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立ち出でて聞くことならぬ、人の身を、虫もあはれと、鳴き
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