、きくものを、何をいそぎて、花の散るらん。
○
散る花の、流れて行けば、川下に、また物思ふ人やあるらん。
柴人か、つま木に添ゆる花見れば、深山の春ぞ、恋しかりける。
降る雨に、散りしく梨の花見れば、春の日ながら、寂しかりけり。
○
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我無言にして、牢獄の苦をも解せざるものゝ如しなど、同房の人々誹りければ。
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神にさへ、見せじと思ふ、口なしの、花の心を、知る人もがな。
○
降るとしも、空には見えず、花の上の、露のみまさる、雨の夕暮。
○
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春の暮るゝ日
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惜めども、限ありけり。行く春の、今を別れの、入相の鐘。
○
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春の行きける明けの朝
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色あせて、散りかふ花も、今朝はまた、春のかたみと、恋しかりけり。
○
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白き夏の衣を恵まれける人への返し
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桜花、たよりも聞かで過ぎつれば、春なき年と、思ひぬるかな。
○
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五月雨の頃
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故郷の、山田の乙女、濡れつつや、早苗とるらん、五月雨の空。
訪ふ人も、なき憂き宿は、五月闇、雨の音にぞ、なぐさまれける。
○
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鉄窓に倚りて、夕間暮、遠く市中の灯火を眺めつゝ。
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螢とも、見てなぐさまん。鉄の窓、へだつる町の、ともし火の影。
○
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蝉声
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明日知らぬ、露の命を思へばや、夕闇かけて、蝉の鳴くらん。
○
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構外に笛声を聞きて、戯に。
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夕闇に、声も忍びて、吹く笛を、あはれ、よそにや君は聞くらん。
○
人目なき、浮世の外と、思ひしに、夢驚かす、暁の鐘。
○
秋もやゝ近く来ぬらし、夕されば、音づる軒の風の寂しさ。
○
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雁の声を聞きて
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別れにし、春のまゝなる、憂き宿の、枕にまたも、かりがねの声。
○
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虫声
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うきふしの、旅寝の身さへ、忘れけり。枕に近き虫の声々。
○
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旅なる人を思うて
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君が行く方も知らねど、夕されば、空のかただに、ながめぬるかな。
夕間暮、軒の草葉の、そよぐさへ、君がたよりの、風と見るかな。
○
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七夕
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一と年に、今夜ばかりは、渡守、天の川舟、はやも漕がなん。
○
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不図目ざめけるに、隈なき月光、玻璃窓より差入りで、枕を照らす。
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草枕、露も涙も、あらはなる、寝覚め恥づかし、武蔵野の月。
○
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九月八日、我が生まれし日なれば、故郷の空思ひ乱れて。
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故郷は、荒れまさるとも、菊の花、今日は忘れず、咲きにほふらん。
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控訴公判期日の近く迫りける頃、戯に。
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故郷に、誰れ帰るとて、立田姫、紅葉の錦、織りて待つらん。
○
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十月五日、公判始めて開かるゝ日、東京控訴院の監房にて、母の身をのみ思ひ耽りつゝ、
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言葉にも、顔にも出さで、たらちねは、東の空や、眺めたまはん。
○
同じくは、露に濡れても、きりぎりす、野辺に鳴く音を、尋ねてしかな。
○
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木葉散りて、八重洲橋上の行人、窓より見ゆ。
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木の葉散りて、居ながら見ゆる人影を、世に珍らしく思ひぬるかな。
今はまた、春のかたみと、何を見ん。しぐれの雨に、柳散りけり。
○
夜もすがら、しぐるる空を、玉水の、絶えぬ軒端の音に聞くかな。
○
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監房の造作、船室の如しなど、人々笑ひ興じければ、
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思ふとも、空吹く風の、甲斐なくて、浪にまかする、船の道かな。
○
久方の、空飛ぶ鳥も、迷はぬを、道なき世とは誰か言ひけん。
○
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十一月十八日、公判。雨降る。
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今日しもぞ、干さんと待ちし我が袖を、時雨の雨に、またしぼるかな。
○
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同じき日の夕暮、控訴院よりの帰途、馬車の内にて。
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濡るるとも、いとひはせじな、夕時雨、明日の晴れなん、空をたのめば。
○
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