鉄窓の歌
木下尚江

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)※[#「石+角」、第3水準1−89−6]
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 君よ。
 これは人に見せる品物では無いが、先年始めて、普通選挙法が議会を通過した時、君は信州に居て、普通選挙運動の発端を、調査した縁故があるので、御一笑に供する。
 明治三十年、僕が中村太八郎君に伴うて、始めて普通選挙請願運動を発起し、事務所を設け趣意書を頒布し、愈々活動に入らうとした時、不図した事件の勃発の為め、八月十日、二人共に松本監獄へ入監の身となつた。一年半、翌年十二月、東京控訴院の判決を受けて出獄するや、僕は故山を棄てゝそのまゝ東京在住の身となり、空想にのみ走る身は普通選挙と云ふだけでは物足らず、遂に三十四年社会民主党の創立に関係することになつてしまつたが、実行の気根と智慧とに富む中村君は、飽くまでも普通選挙一点張りで進行した。普通選挙法案が幾度も衆議院の問題になつた、あれは皆な中村君が縁の下の努力の結果だ。日露戦争と云ふ大犠牲の後、普通選挙が始めて漸く公人の問題に上つたが、あれまでに仕上げる為に、中村君が奔走尽力の功労は尋常では無い。中村君は表面に出て顔を売ることを嘗てしない。何時も相当の人を見立てゝは、その人の名で仕事を運ぶ。故に事業が成就した時、誰も中村君を知るものが無い。中村君はまたそれを何とも思つて居ない。けれど、若し「普通選挙」に感謝する新らしい国民があるならば、表面の記録に残る議員や政治家の功労を称讃すると同時に、多年磽※[#「石+角」、第3水準1−89−6]の荒野に潅漑して、時節の到来を待つた恩人中村君の名を知ることも大切であらうと思ふ。
 三十歳の春を僕は監獄で迎へた。この一年半の鉄窓生活は、僕の生涯にとつて、実に再生の天寵であつた。今見ると、この囈語の奥に、青年転換の危機が鮮やかに刻まれて、森厳な気に打たれる。
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明治三十年八月十日、日暮れて松本裁判所の裏門を出て、始めて監獄へ送らる。陽国神社の木下闇を行く。夕立の雨はれて空には月美しくかゞやく。
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雨はれて、月は梢に見えながら、名残の雫、森の下道。
    ○
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一夜、遙に洋笛の声、枕に響く。我家に程近き松本音楽隊の練習なるが如し。
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ふくる夜の、笛の遠音を、心あてに、家路の空を、思ひこそやれ。
    ○
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鼠の足音に驚きて眠醒めたり。鼠の来るべき所ならねば、疲れし身の夢なりしかと、自ら思ひ惑ひしが、明くる朝起きて着換へんと棚の上なる新衣を披けば、襟の番号札破れて、鼠の歯の痕、あざやかに残れり。夜半の足音は夢にてはあらざりけり。此処にては、衣の襟に一々番号札を縫ひ付け、姓名を言はずして第何番と呼ぶこと、官署の規則なり。我が身、針持つこと拙く、番号札縫ひつくること煩はしければ、飯粒もて糊付け置きけるに、鼠の如何にしてかその香を嗅ぎつけゝん、忍び来りて、鋭き歯もてその糊を剥ぎ取りけるなり。驚愕するものから、且つは興深きことに覚え、晩食の飯粒わざと残し置きて、窃かに鼠の音づれを待ちわぶる身となりぬ。
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木枕の、わびしき宿も、君来やと、待つに、物をば思はざりけり。
    ○
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墻外虫声切々
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立ち出でて聞くことならぬ、人の身を、虫もあはれと、鳴きまさるらん。
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官が給与の鼠紙を台に、自ら携へたる白紙を撚りて文字となし、麦飯の糊もて、歌など張り付け、余念もなく憂き日を忘れて過ぎけるに、一日、室内点検の獄吏、無断に持ち去りて棄てたりければ、愛惜言はん方なく、
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こゝにして、死なば、かたみとなぐさめし、我身の影の、行方知らずも。
    ○
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荒き格子の間より、土の廊下へ飯粒一つ二つ播き与ふるに、雀の子の近く来りて啄む姿、譬へんやうなく愛らしかりしに、近頃久しく影も見えずなりければ、
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世の中は、今が稲田の秋ならん。雀の、ここら、影も見せぬは。
    ○
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墻外の古濠に水禽の鳴くをきゝて。
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夜もすがら、鴨ぞ鳴くなる。うたた寝の、蘆の枯葉に、霜やおくらん。
    ○
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房外に出でて、四方の山の白くなれるを見て。
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袖さえて、得も寝ざりしが、今朝見れば、山山白く、雪ふりにけり。
    ○
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一房を置きて隣れる吉江源次郎君より、かゝる憂
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