き年は暮るゝも惜しからぬよし、人伝てに言ひ越しければ返し。
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濡衣の、春待つ人の心には、暮れ行く年ぞ、いそがれにける。
    ○
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明治三十一年元旦
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あら玉の、年返りぬと聞くからに、古る事さへぞ思ひ出でぬる。
    ○
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一月二十四日、有罪の判決を受く、この日稀有の大雪。
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久方の、天きる雪のおもしろく、つもるにまかす、袖の上かな。
    ○
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二月三日、立春
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消ぬが上に、み雪ふるなり、山里の、いづこの空に春は来ぬらん。
    ○
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二月五日、東京へ護送さる。控訴の為めなり、夜明け頃より雨降りければ。
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故郷の、名残りに落つる涙をば、袖にまぎらす、今朝の雨かな。
    ○
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監獄の門を出づる頃、雨は止みぬ。稲倉の峠下にて茶屋に憩ひけるに、山の陰に煙の立ち上るを、何ぞと尋ねけるに炭竃なりと主人の言ひけるにぞ。
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賤の男が、深雪かくれの炭竃も、立つ烟にぞ、世に知られける。
    ○
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峠の道にて
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去年ながら、つもれる雪の消えそめて、今日ぞ深山も、春は来ぬらし。
たどり行く、深雪の山のあなたには、霞たな引き、春ぞ見えける。
    ○
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保福寺峠を下り行くに、日漸く暮れて、鳥[#「鳥」は底本では「島」]の声寂し。
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沢水に、鴨ぞ啼くなる。春を浅み、浮き寝の床や、寒けかるらん。
    ○
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上田警察署泊。雲間の月をながめて。
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たまたまに、影は見えつつ、村雲を、払ふ風なき、夜半の月かな。
    ○
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翌六日朝、汽車にて上田を立つ。浅間山の麓を行く。
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烟だに、見てなぐさまん。春霞、浅間の峯は、立ちなかくしぞ。
   ○
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碓氷峠を越ゆるに、春風暖く、そゞろ眠を催す。
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人知れぬ、霞かくれの花もあらん。香をだにつてよ、春の山風。
鴬の古巣と見ゆる、谷かげに、まだ去年ながら、雪ぞ残れる。
吹く風も、のどけき春は、旅衣、うすひの関も、知らで過ぎけり。
    ○
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六日七日両夜、上州松井田泊。
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のどかなる春の山辺も、夕暮の、鐘の音こそ、さびしかりけれ。
    ○
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八日夜、武州本庄泊。翌くる朝顧みて、浅間嶽の独り高く雲表に聳ゆるを遙に望み。
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浅間山、峯の白雪、まだ深し。春は、碓氷の関や隔つる。
    ○
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途上即興
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ささ濁る、里の小川に袖濡れて、誰が妹ならむ、根芹つむなり。
ほのかにも、去年の面影残るかな。霞かくれの遠山の雪。
若草の野辺に打ち連れ、憂き今日の、春を昔に、語る日もがな。
浅緑、春の野もせと一とつらの、川瀬のどかに、白帆行くなり。
    ○
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九日午時過ぐる頃、東京着、直ちに鍛冶橋監獄に入る。
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よそにのみ、都の春を、ながめつつ、雪ふる郷の、空ぞ恋しき。
    ○
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梅の花咲く頃
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払はでぞ、ながめしなまし、白雪の、降るもおかしき、梅のあけぼの。
    ○
誰が宿の、春は訪ふらん。わび人の、籬の外の、鴬の声。
    ○
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帰雁
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夜さへも、とまらで帰る、かりがねは、故郷いかに恋しかるらん。
    ○
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桜の頃、或夜、風はげしく吹きければ。
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嵐こそ、うしろめたけれ。桜花、行きて見るべき、我身ならねば。
    ○
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故山を思うて
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春おそき、片山里の桜花、誰を待ち得て、咲かんとすらん。
    ○
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食膳の蕨を見て
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萌え出づる蕨を見れば、山人も、捨てし浮世の、春ぞ恋しき。
    ○
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運動場にて、落花を拾ひて、袖に収めけるを看守の見て咎めければ、二首。
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香をだにも、袖にとゞめて、あかず散る、花の夕の、思ひ出にせん。
またも来て、訪ふ宿ならぬ花なれば、散り行く影の、なほぞ恋しき。
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この年、三月に閏ありと聞きければ、
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常よりも、のどけき春と
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