、翁の生涯に於ける新飛躍であつた。四十年の夏。谷中村の残民十幾戸が、愈々公権に依て破壊され了つた時、或人が扇子を出して、何か書いて下ださいと云ふと、翁は筆を持つて打ち案じて居られたが、忽ち腕が動いたと見ると、雪白の扇面に「辛酸入佳境」と行書の五文字、さながら竜の行くが如くに躍り出でた。見て居た連中、何れもうまい/\と、只管《ひたすら》に其の筆鉾を讃めたゝへた。讃められて翁は、長髪の波打つ頭を両手に叩いて、大口開いて「ハヽヽヽ」と笑われた。予は覚えず涙を呑んだ。
「辛酸入佳境」
 翁の生涯は実に此の五文字に描き尽くされて居る。
 此の頃から、翁は点頭《うなず》きながら、
『悪人と云ふものは無いです。悪人と思つたのが間違で、つまり何も知らないのです』
と語り始めた。

       六

 一昨年の何月頃であつたか、翁は切りに文章を書いた。其れが皆な古河の停車場の茶店に汽車を待つ間などの手ずさみで、曾て腰を離《はな》つたことの無い大きな矢立を取り出して、粗末な手帳へ書き放したものである。そんなのが三四冊出来た。読んで驚いた。希臘《ギリシヤ》羅馬《ローマ》あたりの古哲の遺書を誦むような気がす
前へ 次へ
全18ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング