、政府へ迫つた。政府は驚いて、急に手筈を替へて参列席に改めた。
二十三年七月一日、日本の歴史に見たことの無い衆議院議員の選挙と云ふことが始めて行はれた。田中正造も郷里から推されて代議士になつた。五十歳。
其年十一月二十五日、帝国議会が始めて召集された。衆議院の中心問題は予算であつた。予算議定権の争議であつた。憲法第六十七条の解釈と云ふものが、政府と民党との接戦点であつた。政府は議会の権限を縮少しようとし、民党は議会の権能を伸張しようとする。自由党議員の分裂に依て、民党の主張は先づ敗北した。田中は民党中の最硬派改進党に属して居た。
二十四年十一月廿六日、第二議会の開院式は行はれた。今度は第一議会の失敗に懲り、自由改進両党の提携を固くし、猛烈に政府を突撃する計画で、議会解散の風説は早くも世に伝はつて居た。その上に、田中に取りては、この年始めて鉱毒問題を提げて特殊の戦闘を開かねばならぬ。この多端の折、十一月廿七日、父富造翁死去の電報が来た。二十九日附の田中の端書が残つて居るが、当時※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]忙の状が如実に見える。
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