民党の驍将島田三郎の地盤横浜の戦争は実に火の出る接戦であつた。
この頃の選挙法は、選挙資格が直接国税十五円と云ふ高い制限で、当時の横浜は地域も狭く人口も少く、選挙人の総数は多分三百人内外のものであつたらう。且つ記名投票なのだから、勝敗は選挙前から予知することが出来る。反対派の候補者木村利右衛門と云ふは正金銀行の重役で、年齢は先生よりも上だ。一点の差で先生が敗けるか、同点で年少の為に敗けるのか、何れにしても先生の落選と云ふことは、敵味方の一致する予定成績であつた。然るに開票の結果は、一点の差で島田三郎の当選となつた。実に意外、全く意外――然しこれには悲壮な一美談がある。正金銀行の有権者は、無論悉く木村に投票するものとして、何人も疑はなかつた。然るに一人の若き島田崇拝者があつた。選挙の朝、彼は島田に投票し、直ぐ其足で銀行へ赴いて予め認めて居た辞職届を出して帰宅した。この一票で生死の運命が全く転換した。僕は今この人の名を失念して君に語ることの出来ないのを遺憾に思ふ。未だ血も乾かぬこの苦戦の実況を頭に置いて見る時、今度木村からの「条件付無競争」と云ふ申込に、如何ばかり大きな誘惑力を包んで居る
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