のでは無い。国民の病を病んで居なさるのだ。更に大きく言へば、今日世界共通の人間の病を病んで居なさるのだ。故に僕は言ひます。先生今日の御病気は、過去一切の御活動よりも遙かに優りたる大事業である』
僕は何時しか先生の病体と云ふことをも忘れ、朱檀の小卓を叩いて先生に迫つた。
先生は両手を膝に置いた儘目を閉ぢて黙想して居られた。
僕は語気を静めて、それから自分の貧弱な「信念」の経験を先生に告白した。先生も亦多年の実験を腹蔵なく語つて下された。僕が明治三十二年の春、毎日新聞で文筆生活に従事して以来、先生の恩誼に浴すること実に二十五年、然かも、先生に対してこの日ほどの幸福を感じたことを覚えない。
『先生は常に御多忙で、時を忘れてお話をお聞きすると云ふやうな、喜びを味ふことが出来ませんでしたが、今日は始めて、胸憶を全部開いてお話することが出来ました』
かう言うて、「病気の賜物」を感謝した。
『私も誠に愉快です』
かう云はれた先生の面貌には、一点憂愁の影も無く、晴れ渡つて、青春の光に輝いて見えた。
君よ。これが僕の島田先生だ。
この年九月一日が関東の大震災。猛火は島田邸の直ぐ裏まで迫つた
前へ
次へ
全38ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング