が、急に風向が変つて、あのあたり数個の邸宅が沙漠のオアシスの如くに焼け残つた。
 十一月十四日の暁、先生は真に安らかに永眠に就かれた。享年七十三。葬儀は多年の昵近者の手で行はれた。内ヶ崎作三郎君が司会をした。吉野作造君が履歴を読んだ。石川安次郎君が遺文を読んだ。山室軍平君が説教をした。安部磯雄君が所感を述べた。遺骨は青山の次男悌二郎さんと同じ墓穴に納められ、石碑にはたゞ「島田家墓」と彫つてある。

   未来への洞察と警告

 先生の全集刊行の際、僕も聊かそれに参加したが、山なす遺文を一々見て行く中、不図一つ講演の速記を手にして覚えず驚喜に打たれた。それは明治二十三年の三月、当時数寄屋橋教会堂に催された青年会での演説で、標題は「共同営業(コーペレーシヨン)」としてある。明治二十三年の春と言へば、前年の十月には大隈外務大臣が条約改正問題の為め、反対党の爆裂弾に打たれ、この年の七月には日本歴史未曾有の衆議院議員選挙が行はれる予定で、全国ただ政治運動に狂転して居る時だ。先生は去年の秋欧米漫遊から帰つて見えたばかりでこの演説が殆ど帰朝後の第一声と言うてもよからう。政治全能時代の青年に向て「今後
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