で、僕は更に一つの事を理解した。
丁度十年を経て、明治三十四年僕等は社会民主党を造つた。憎悪と嫌忌と賤蔑との世論の中に立つて、先生は「社会主義と社会党」と題し、毎日新聞紙上月余に渉つて詳細慎密に評論された。後に「社会主義概論」と改題して出版されその頃普く愛読されたものだ。当時先生の態度は何と言うて可からう。今のハヤリ言葉を借用すれば、「シンパ」と言ふ所だらう。然れ共少し離れて疑はしげに眺める者には何と見えたであらうか。社会党の創立者中、安部磯雄、片山潜の二人は先生と親交ある友人だ。数にも足らぬ人間ながら、僕と言ふ者は現に先生に尤も親近な社中の者だ。貴族富豪等の目には先生が事実社会党の首領の様に見えたであらう。明治三十六年の、横浜の選挙と云ふ活劇には、この事が一つの大きな動機をなして居たやうに思はれる。三十六年の横浜の選挙は、単に先生一身上の劃期的事件であつた許りでなく、政治思想史上にも社会思想史上にも、注目すべき活きた運動であつた。然し、僕はそれを説く前に今一つ先生の思想問題上君に聴いて欲しいものがある。
「開国始末」執筆の頃
先生を語る為めに、全集を彼れ此れ開いて居ると、
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