つて、日和下駄を響かせて、南部坂の家庭へ帰る。――目を閉ぢて回想すると、君よ、真に田園の静寂だ。
 僕が今幸徳を語るを見て、「逆徒」の名を語るを見て、必ず恐怖する人があらう。戦慄する人があらう。憤怒する人があらう。
 君よ。僕は逆徒を語るのではない。逆徒を擁護するのではない。「逆徒の悩み」を少しく聞いて欲しいのだ。

       六

 マルクスの「共産党宣言」が、幸徳、堺の二人の手に翻訳されて、平民新聞に満載された。新聞は直に発売を禁ぜられ、幸徳は発行人の名義の下に告発されて刑事の法廷へ立つことになつた。花井卓蔵、卜部喜太郎、今村力三郎などいふ当年の少壮弁護士が自ら進んで弁護の労を取つて呉れた。然る所、問題は有罪無罪でなく、思想その物が主脳であるから、この際誰か同志の中で裁判所といふ機関を通して意思を表白する必要がある――かういふ議論が起つた。それから、僕がその選に当つた。僕は忘れて、未だ弁護士の登録を取消して無かつたので、誠に都合が好かつた。
 花井君が、誰かの法服を持つて来て呉《くれ》たので、早速借用して入廷した。皆んなが見て笑ふ。被告を無罪にしたいなどいふ私心から、全く離れて
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