に幸徳の幸福であつた。
幸徳の本領は詩人だ。彼が低く細い声で徐ろに肝胆を吐く時、一種の精気――鬼気ともいふべきものが、相手の肺腑を打つ。彼は虚弱でよく病んだ。
堺君は常識の人、事務の人、強健で快※[#「さんずい+闊」、第4水準2−79−45]、一切万事一人で忙がしく切つて廻すところに、堺君の興味があつた。堺君のゐるところには、初夏のやうな晴れやかさがあつた。
当時の青年が要求したものは、実は成形した思想などでは無かつた。彼等は混沌を渇望した。大混沌を渇望した。大混沌裏の大創造を渇望したのだ。この渦巻いてゐる若い熱ガスのために、一個の小噴火口を与へたのが、幸徳の平民新聞であつた。
嗚呼、当時の東京――
僕は、夕方尾張町の新聞社から平民社へ立寄つた。数寄屋橋角の石垣は、まだ昔のまゝに高く残つて居り、濠端には、竜のやうな老松が、鬱蒼と茂つて居た。電車は開通し始めて居たが、自動車などは夢にも無い。街頭でも家の中でも、ランプとガスだ。
母が甘い物を好んだので、平民社の直ぐ隣の塩瀬で、よくあんころもちを買つて帰つた。日比谷へ出て、芝の山内を抜け、一の橋、二の橋、中の橋を渡り、仙台坂を上
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