、「書生輩の児戯」以上、実は未だ一向に注意を払つて居なかつたものだ。「禁止」次いで「告発」――世間は始めて漸く目を見張つて来た。
 都下の新聞社がいづれも有罪の判決を受け、法の明文に従つて判決書の全文を各紙上に満載した時、犯罪の主体たる「宣言書」が、改めて全部判決書中に掲げられて再び紙上に現はれた時、読者は新奇の熱情に誘はれて、一字も余すまじと精読した。かうした不思議な因縁で、「社会主義」といふ記憶が電気メッキの如くに、国民の心裏に焼きつけられてしまつた。
 ユニテリヤン協会では、今や「社会主義研究会」の看板を持て余ました。それを我々の方へ貰ひ受けて「社会主義協会」と塗り替へて、毎月講演会など開くことにした。三十六年の暮、日露両国の交渉が危機に迫つた時「非戦論」を発表したのも、この社会主義協会だ。

       五

 幸徳が中心に立つ時が来た。幸徳が「非戦論」で「万朝報」を退社したといふことは、当時の青年への一大衝動であつた。彼は同問題で一緒に進退を決した堺利彦君と二人で、数寄屋橋角の古長屋に「平民社」を新設し、「平民新聞」といふ週刊新聞を発行した。堺君といふ人と提携したことが、実
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