三十円。幹事二名――片山君と僕。事務所は、神田仲猿楽町の僕の借宅。
 我等の顔は、雲霞の如き前途の希望に輝いた。けれど、幹事といふ僕の眼前には、差迫つた一つの問題がある。党が成立した上は、直ぐ世間へ発表せねばならぬ。東京を振り出しに、西は名古屋、京都、大阪、東は仙台――せめてこれくらゐのところでは、一つ集会をやらねばならぬ。然る所、安部君は教授の繋累で、地方出張の時間の自由が無いといふ。幸徳は、『僕は筆でやるから、演説は是非勘弁して呉れ』といふのだ。
 片山君は学問もあり経験もある。彼が一たび憎悪に燃えて、野獣の如く叫ぶ瞬間、頑強粗野な体躯面貌は、あたかも岩石の聳ゆる如くに聴衆を圧倒する。然しそれがもし壺にはまらぬ場合、兎角満場倦怠の不安がある。
 今や我等は、同志の前へ行くのでは無い。軽蔑と嘲笑との中へ踏み込んで、征服し啓発して行かねばならぬのだ――
 こんなことをひとり思うて居ると、届け出てから五六日、警察署の呼出状が来た。行つて見ると警視庁の「禁止命令」だ。
 さて、政府は党を禁止したのみでなく、宣言書を載せた新聞紙をことごとく告発した。この時まで一般社会は、社会党の問題に対しで
前へ 次へ
全16ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング