幸徳は、
『好い身体だなア――』
と、さも羨ましげに見上げた。やせ枯れた僕をさへ羨むほどに、彼の肉体は破れて居た。人を避けて少し静養したいと思ふ、といふから、僕は熱心に勧めて別れた。
間もなく湯河原から、転地の通知が来た。僕は、新約全書と碧巌録とを、小包で送つてやつた。
「牢屋で耶蘇の穴探しをしたから、今度は耶蘇の宝探しをして呉れ」と書き添へて。
碧巌の礼だけいうて来た。後で思ふと、あの時幸徳は既に「基督抹殺論」を書き始めて居たのだ。四十三年六月一日、彼は場河原から市ヶ谷の監獄へ移つた。お千代さんが名古屋から出て来て、病弱な身で、差入物万端世話して居ると聞いた時、僕は「死に水を取つてくれるのは、お千代だよ」というた時の顔を思うた。
歳末、お母さんが、遙々土佐から上京し、堺君に連れられて、市ヶ谷へ面会に行かれたと聞いた時、僕はツク/″\「母の慈悲力」を思うた。
数日後、朝、新聞をひろげると、お母さんが土佐で亡くなつた記事が、大きな活字で出て居る。
僕は直ぐに筆を執つて手紙を書いた。櫟林の会談を書いた。母に死なれた経験を書いた。わき来る感慨を、筆の走るにまかせて書いた。――一刻も
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