かが》致したと申すのでげすナ」
「御尤《ごもつとも》です、新聞には大抵、小米と申すのが、未《ま》だ賤業《せんげふ》に陥《おちい》らぬ以前、何か兼吉と醜行でもあつた様にありますが、其れは多分小米と申すの実母《はゝ》から出た誤聞であります、兼吉と彼《か》の婦人とは幼少時代からの許嫁《いひなづけ》であつたのです、然《しか》るに成人するに及《およん》で、婦人の母と云ふが、職工|風情《ふぜい》の妻にしたのでは自分等の安楽が出来ないと云ふので、無残にも芸妓《げいしや》にして仕舞《しま》つたので――其頃兼吉は呉港《くれ》に働いて居たのですが、帰京《かへ》つて見ると其の始末です、私《わたし》も数々《しげ/\》兼吉の相談に与《あづ》かつたのです、一旦《いつたん》婦人の節操を汚がしたるものを娶《めと》るのは、即ち男子の道義をも自ら破壊することになるか如何《どうか》と云ふのです、私は彼に質問したのです、――君は彼女《かのぢよ》の節操破壊を以て自己の心より出でたるものと思つてるか如何《どうか》――所が彼の言ひまするには、私は決して左様《さう》は思ひません、全く母親の利慾に圧制されたので、柔順なる彼女は之に抵抗することが出来なかつたのであることを疑はないと云ふのです」
「ほんたうに小米さんの様な温順《やさし》い人はありませんでしたよ」と、花吉は、吐息《といき》を漏《も》らしぬ、
「左様《さう》であつたとのことですナ」と篠田は首肯《うなづ》き「然《しか》らば君、少しも憚《はばか》る所は無い、速《すみやか》に彼女《かれ》を濁流より救ひ出だして、其愛情を全うするが可《よ》いと、忠告致しました、所が彼は躊躇《ちうちよ》して、けれど彼女《かれ》は千円近くの借金を背負《しよ》つてるのでと悶《もだ》へますから、何を言ふのだ、霊魂を束縛する繩が何処に在ると励ましたのです」
「へヽヽヽ先生、御得意の自由廃業でげすな」と、丸井はツルリ禿頭《あたま》を撫でぬ、
「左様です、不道徳なる負債は、弁償の義務がありません、否《い》な、弁償を迫る権利がありません、――それで婦人も非常に喜んだサウです、所が何とか云ふ貴族院議員が――」
と篠田の暫《し》ばし其名を思ひ出し得ざるに、花吉が「あの、金山《かなやま》伯爵でせう、――小米さんも嫌《いや》がつて居たんですよ、頭の禿《は》げた七十近い老爺《おぢい》さんでしてネ」
「花ちやん、頭の禿《は》げたなどは特別恐れ入りやしたわけで」と丸井は赤光《あかびかり》の脳天ポンと叩いて首を縮む、
「御免の毒様でしたワねエ」と花吉も口を掩《おほ》うてホヽと笑ふ、
九の四
「大事な所を禿顱《はげあたま》で、花ちやんにケチを付けられて仕舞《しま》つた、デ、篠田先生、其れから何《どう》なりました、全《まる》で小説の様でげすなア」と、丸井玉吾は煙草《たばこ》に点火しつゝ後を促《うな》がす、
「所で、今ま貴女の仰《おほ》せられた金山と言ふ大名華族の老人が、其頃|小米《こよね》と申す婦人を外妾《めかけ》の如く致して居たので、雇主《やとひぬし》――其の芸妓屋《げいしやや》に於ては非常なる恐慌《きやうくわう》を喫《きつ》し、又た婦人の実母《はゝ》からは、独断に廃業などして、小千円の負債の為めに両親が訴へられても顧みない量見かと云ふ様な脅迫に及ぶ、婦人も実に進退|谷《きは》まつて、最後の書状を兼吉へ送り越したのです、――到底《たうてい》自分は此の苦境を逃がれることの出来ぬ何等過去の業果と思ふから、此の肉体をば餓鬼《がき》の如き男子の飜弄《ほんろう》に一任するが、然《し》かし郎君《あなた》を良人《をつと》と思ふ心に曾《かつ》て変動を見たることの無いのは、神仏の前に誓言することが出来る、で、此の心が何時《いつ》か肉体を分離したる未来世《みらいせ》に於ては、幸に我妻と呼んで呉《く》れよと云ふ意味を、縷々《るゝ》認《したゝ》めてありました、言々《げん/\》是《こ》れ涙、語々《ごゝ》是れ血と云ふのは多分|此《かく》の如きものであらうと感じたのです」
「して、其の手紙は今も何処《どこ》にか残つて居ませうか」と流石《さすが》三面記者の丸井老人、直ぐ種取的《たねとりてき》の質問、
「左様《さやう》、兼吉は大切に深く懐中に納めて居ましたから、今は必ず監獄署に預かつて居るでありませう――彼は其手紙を握り占めて真に血涙を絞《しぼ》りました、遊惰なる富民の獣慾の為めに、清浄無垢《せいじやうむく》なる少女の節操の揉躙《じうりん》せらるゝのを却《かへつ》て喝釆《かつさい》歓喜する社会は果して成立の理由があるかと憤慨して、彼は実に泣きました、丸井さん、日本では切《しき》りに虚無党を悪口致しますが、現在の社会と比較するならば、虚無党の主張の方が寧《むし》ろ確《たしか》に真理に近いものです――私も百方慰め励まして、無分別のこと仕ない様に注意して、丁度《ちやうど》、夜の十時過、老母《ばゝ》が待つてるからと、帰つて行きましたが、翌朝新聞を見ますると、職工の芸妓殺《げいぎころし》と云ふ二号|題目《みだし》の二版がある、――アヽ、何故《なぜ》無理にも前夜一泊させなかつたかと、実に悔恨《くわいこん》の情に堪へませんでした」
篠田は暫《しば》らく瞑目《めいもく》しつ「昨日も監獄へ参つて面会致しましたが、彼れも実に夢の様であると申して居ました、――何でも西本願寺辺まで来ました時が、既に十二時近くであつたさうですが、何《いづ》れの家も寝静まつた深夜の、寂寞《せきばく》の月を践《ふ》んで来るのが、小米である、ハタと行き当つたので、兼吉の方から名を呼びかけると、婦人《むかふ》は『イヽエ、米《よね》ではありません、米は最早《もう》死んで仕舞ひました、是れは迷つてる米の幽霊です』と云つて面《かほ》をそむけて仕舞《しま》つたさうです、兼吉の言ひますに、其れ迄は記憶して居るが後は何《どう》したか少しも覚えない、不図《ふと》気が付いて見ると、自分は左腕《ひだり》で血に染まつた小米の屍骸《しがい》を仰《あふむ》けに抱いて、右手に工場用の大洋刀《おほナイフ》を握つて居たと云ふのです」
ジツと聴き居たる花吉は窃《そつ》と涙を拭《ぬぐ》ひつ身を顛《ふる》はして、
「彼晩《あのばん》は貴下《あなた》、香雪軒で桂さんだの、曾禰《そね》さんだのツて大臣さん方の御座敷でしてネ、小米さんが大盃《コツプ》でお酒をグイ飲みするんですよ、あんなことは今まで一度も無いのですから、何《どう》したんだらうつて皆《みん》な不思議がつて居ましたの、少こし酔つたから風に吹かれた方が可《い》いつて、無理に車を返へしましてネ、一人で歩いて帰つたんですよ、――きつとあれから門跡様《もんぜきさま》へ参詣《おまゐり》したのです、何事も前世からの約束ですワねエ」
「承れば先生、兼吉の老母《おふくろ》を御世話なされまするさうで、恐れ入りました御心掛で」
「イヤ、世話致すなど申す程のことも出来ませんが、此際先づ男の家《うち》と、女の家《うち》を調和させたいと思ひましたが、丸井さん、実に不思議ですなあ、小米の父親は涙に暮れまして、是《こ》れと申すも手前共の悪るかつたからで、聊《いさゝ》か兼吉を怨む筋は無いと悔《く》いて居りまするが、母親の方は非常な剣幕《けんまく》で、生涯楽隠居の金蔓《かねづる》を題無しにしたと云ふ立腹です、――女性《をんな》と云ふものは、果して此《かく》の如く残忍酷薄なものでせうか」
丸井玉吾は鹿爪《しかつめ》らしく首傾け「成程――花ちやん何《どう》でげすな」
「丸井さん、ほんとに女性《をんな》の方が酷《ひど》いんですよ」
篠田は首打ち振りぬ「其れが女性《をんな》の本来でせうか――必竟《ひつきやう》女性を鬼になしたる社会の罪では無いでせうか」
丸井は禿顱《あたま》を撫《な》でぬ「御最《ごもつとも》で」
襟かき合はせて花吉は、目を閉ぢぬ、
十
烏森は新春野屋の長火鉢を中に、対座したる主婦《あるじ》のお六と芸妓《げいしや》の花吉、
「ぢや、花吉、お前|何《どう》するツて云ふんだ」と、お六は簪《かんざし》もて頭掻きつゝ、顔打ちしかめ「濁水《どろみづ》稼業をして居る身の、思ふ男に添ひ遂げることの出来ない位は、お前《めえ》だつて、百も承知だらうぢやないか、是れが松島さんの奥様《おくさん》になれつて云ふのなら野暮な軍人の、おまけに昔気質《むかしかたぎ》の姑《しうと》まであるツてえから、少こし考へものなんだが、お前《めえ》、妾なら気楽なもんだあネ、厭《いや》になつたら何時でも左様《さやう》ならをキメるまでサ――大洞《おほほら》さんもサウ仰《おつ》しやるんだよ、決して長くとは言はない、露西亜《ロシヤ》の戦争《いくさ》が何方《どつち》とも定《き》まるまでの所、厭《いや》でもあらうが花ちやんに、放鳥の機嫌《きげん》を取つて貰はにやならないのだからつて――私《わたし》だつて、赤児《あかんぼ》の時から手塩にかけたお前《めえ》のことだもの、厭だつてもの無理にと言ひたかないやね、けれど平素《いつも》利益《ため》になつてる大洞さんのお依頼《たのみ》と云ひ、其れにお前も知つての通りの、此の歳暮《くれ》の苦しさだからこそ、カウやつて養女《わがこ》の前へ頭を下げるんぢやないか、お前《めえ》是れでも未だ解からねえのかエ」
花吉はがツくり島田の寝巻姿《ねまきすがた》、投げかけし体《からだ》を左の肱《ひぢ》もて火鉢に支《さゝ》へつ、何とも言はず上目遣《うはめづか》ひに、低き天井、斜《なゝめ》に眺めやりたるばかり、
お六は煙草|燻《くゆ》らしつ、「一昨日《をとゝひ》の晩も『浪の家』から、電話ぢや能《よ》く解らないツてんで態々《わざ/\》使者《ひと》まで来たぢやないか、何が面白くて湖月などにグヅついてたんだ、帰つたと思《お》もや、頭痛がするツて寝て仕舞つてサ、昨日も今日も御飯もたべず、頭が痛えか、腰が痛えか知らないが、一体まア、何《どう》思つて居るんだ」
去《さ》れど花吉は答へんともせず、
ポンと、お六は灰吹叩きつ「花吉ツ、耳が無《ね》いのか、お前《めえ》の目にや、私《わたし》と云ふものが何と見えるんだ、――何処《どこ》の者とも知れねエ乞食女の行倒《ゆきだふれ》の側に、ヒイ/\泣いてる生れたばかりの女の児が、余《あんま》り可哀さうだつたから拾ひ上げて、乳の世話から糞尿《おしめ》の世話、一人前に仕上げる迄、何程《どれほど》の苦労だつたとも知れたもんぢやない、チヨツ、新橋の花吉が一人で出来たとでも思ふのか、オイ花吉、此の生命《いのち》は誰のお蔭《かげ》だよ」煙管《きせる》取り上げて、花吉の横顔、熱き雁首《がんくび》にて突ツつきぬ、
花吉は瞑目《めいもく》して頭《かしら》を垂れぬ「其の御講釈なら、養母《おつか》さん、最早《もう》承はるに及びません、何の因果《いんぐわ》でお前の手などに拾はれたものかと、前世の罪業が思ひやられますのでネ」
「何だ」といきまく養母の面《おもて》、ジロリ横目に花吉は見やりつ「ハイ、乞食の母《おや》の懐《ふところ》で、其時泣き死《じに》に死んだなら、芸妓《げいしや》などになり下《さが》つて、此様《こんな》生耻《いきはぢ》曝《さら》さなくとも済んだでせうにねエ」唇|噛《か》み〆《し》めて、ツと面《かほ》を背向《そむ》けぬ、
「ナニ、芸妓になり下つたト、――余《あん》まりフザけた口きくもんぢやない、乞食の女《こ》でも宮様だの、大臣さんだのの席へ出られると思ふのか」
「大臣が何だネ、養母《おつか》さん、お前は大臣なんてものが、其様《そんな》に難有《ありがたい》のかネ、――私《わたし》に取つちや一生忘られない仇敵《かたき》なんだよ――、あゝ、思うても慄《ぞつ》とする、三月の十五日、私の為めの何たる厄日であつたのか」
「三月十五日が、何《どう》したと云ふんだ」
「お前が私《わたし》を拾つて下すつたのは、今から二十年前の師走《しはす》の廿五日、雪のチラつく夕間暮《ゆふまぐれ》と能《よ》くお言ひだが、たツた五年の昔、三月十五日の花の夜、十六
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