の春の一人の処女《むすめ》を生きながら地獄へ落しなすつたことは、モウ疾《と》くにお忘れだらうネ」
 花吉は、養母《おふくろ》の尖唇《つのくち》を怨《うら》めしげに一瞥《いちべつ》しつ「養母《おつか》さん、私《わたし》を食つた其鬼が、お前の難有《ありがた》がる大臣サ、総理大臣の伊藤ツて人鬼サ、――私もネ、其れ迄《まで》は世間なみの温順《おとなし》い嬢《むすめ》だつたことを覚えてますよ、それが官位の棒で押へられ、黄金《かね》の鎖《くさり》に縛《しば》られて、恐ろしい一夜を過ごした後は、泣いてもワメいても最早《もう》取り返へしは付かず、女性《をんな》の霊魂《たましひ》を引ツ裂れた自暴女《あばずれもの》、蕾《つぼみ》で散つた昔の遺恨《うらみ》を長き紀念《かたみ》の花吉と云ふ、一生の恋知らずが、養母さん、お蔭様で一匹出来上りましたのサ――ヤレ侯爵の殿様だの、大勲位の御前《ごぜん》だのと、聞くさへも穢《けがら》はしい、彼様《あんな》狒《ひゝ》見たいな狂漢《きちがひ》に高い禄《ふち》遣《や》つてフザけさせて置く奴も奴だが、其れを拝み奉る世間の馬鹿も馬鹿だ、侯爵が何だ、大勲位が何だ、人をツケ――」
 頬にかゝれる鬢《びん》の乱れ、ブツリ噛《か》み切つて壁に吐きぬ、
「聞いた風なことホザきやがる、銭《ぜに》取り道具と大目に見て居りや、菊三郎なんて大根に逆《のぼ》せ上つて、――」
「オホヽヽヽ養母《おつか》さん、逆上《のぼせあが》つて丈《だけ》は取消にして、下ださい、外聞が悪いから――それや、狸々《しやう/″\》花吉と異名《あだな》取る程、酒を呑《の》みますよ、俳優買《やくしやかひ》では毎々新聞屋の御厄介にもなりますよ、養母《おつか》さん、酒でも呑んで気でも狂はせずに、片時《かたどき》なりと此様《こんな》馬鹿げた稼業が勤まりますか、俳優々々《やくしや/\》と八釜敷《やかましく》言ふもんぢやありません、まア考へても御覧なネ、毎日毎夜|是《こ》れ程男の玩弄《おもちや》になつて居りながら、此世で仇讐《かたき》の一つも撃《う》つて置かなかつたなら、未来で閻魔様《えんまさま》に叱かられますよ、黄金《かね》で叩《はら》れた怨恨《うらみ》だから黄金で叩《は》り復《か》へして遣《や》るのさネ、俳優の様な意気地なしでも、男の片ツ端かと思《お》もや、養母さん、ちツとは癪《しやく》も収りまさあネ、あゝ、何卒一日も早く此様|娑婆《しやば》は御免蒙《ごめんかうむ》りたいものだと思つてネ」
「ヘン、其様《そんな》に死《くたば》りたきや、小米の様に殺してでも貰ふが可《い》いや」
「養母《おつか》さん、可哀さうにも花吉にはネ、兼さんとか云ふ様な、実意の男《ひと》が無いんですよ、何《どう》せ芸妓町《げいしやまち》などへウロつく奴に、真人間のある筈が無いからネ――あゝ、ほんたうに米ちやんが、羨《うらや》ましい――」
 チリヽンと格子戸開きて、「只今《たゞいま》」と可愛い声してあがり来れる未《ま》だ十一二の美しき小女《せうぢよ》、只ならぬ其場の様子に、お六と花吉との顔|暫《し》ばし黙つて見較《みくら》べつ、狭き梯子《はしご》ギシつかせて、狐鼠狐鼠《こそこそ》低き二階へ逃げ行けり、其の後影ながめ遣りたる花吉、「彼《あ》の児の寿命もコヽ二三年だ――養母《おつか》さん、最早《もう》罪造りも大抵にお止《よ》しなねエ」言ひ棄てて起ち上がりつ、お六の叫ぶ「畜生」をフハリ聞き流がして、ツイとばかり縁端《えんさき》へ出でぬ、
「――アヽ、いやだ/\」

     十一の一

 冬枯の庭園の輝く日さへ一としほ荒寥《くわうれう》を添ふるが中を、彼方此方《あなたこなた》と歩を移すは、山木の梅子と異母弟の剛一なり、
 剛一は洋杖《ステツキ》もて庭石打ち叩《たゝ》きつゝ「だから僕は不平だと言ふんです、姉さんは少しも僕を信用して下ださらんのだもの」
 梅子はいとも莞爾《にこやか》に「剛さん、可笑《をか》しいのねエ、私が何時《いつ》貴郎《あなた》を信用しなかつたの、私は貴郎の様な学問も品性も優等なる弟《おとゝ》のあることを、お友達にまで誇つて居る程ぢやありませんか」
「虚偽《うそ》ツ、若《も》し其れならば、姉さん、貴嬢《あなた》の苦悶を私に打ち明けて下すつても可《い》いぢやありませんか、秘密は即ち不信用の証拠です」
「秘密? 剛さん、私、何の秘密もありやしないワ」
 云ふ顔、剛一は打ちまもりつ「其れ御覧なさい、其の通り姉さんは僕を信用なさらぬぢやありませんか、僕は能《よ》く貴嬢《あなた》の胸中を知つてます」
 赤く枯れたる芝生の上に腰をおろして、剛一は、空行く雲を眺《なが》めやりつ「姉さん、今春《このはる》でしたがネ、僕は学校の運動場で、上野の森を見下しながら、藤野と話したことがありますよ」
 突然の新談緒《しんだんちよ》に「藤野さんテ、彼《あ》の華厳滝《けごんのたき》でお死なすつた操《みさを》さんですか」
「左様《さう》です、世間では彼が自殺の原因を、哲学上の疑問に在る如く言ひ囃《はや》しましたが、あれぢや藤野の霊も浮ばれませんよ、――僕は能《よ》ウく彼の秘密を知つてますからネ」
「ぢや、剛さん、何か深い原因《わけ》があつたのですか」
「左様《さう》です、人生の不可解が若《も》し自殺の原因たるべき価値あるならば、地球は忽《たちま》ち自殺者の屍骸《しがい》を以て蔽《おほ》はれねばなりませんよ、人生の不可解は人間が墓に行く迄、片手に提《さ》げてる継続問題ぢやありませんか、其様《そんな》乾燥無味な理窟《りくつ》で、彼《あ》の多感多情の藤野を殺すことは出来ませんよ」
「剛さんとは兄弟の様に親しくて、私《わたし》のことも姉さんと呼んで下だすつたので、ほんたうにお可哀さうだと思つてネ」
「姉さん、藤野は実に可哀さうでした――彼の自殺は失恋の結果なんです」
「エ、――失恋?」
「左様です、彼《か》の『巌頭《がんとう》の感』は失恋の血涙の紀念です、――彼が言ふには、我輩は彼女《かのぢよ》を思ひ浮かべる時、此の木枯《こがらし》吹きすさぶが如き荒涼《くわうりやう》の世界も、忽ち春霞《しゆんか》藹々《あい/\》たる和楽の天地に化する、彼女《かれ》を愛することに依《よつ》て我あるを知ることが出来る、――彼女は即《すなは》ち我が生命であると自白して居ましたよ、そして僕に向《むかつ》て、山木、君は果して理想の佳人が無いかと詰問しますからね、僕は言つて遣《や》つたのです、――山木剛一にも理想の佳人があるツ」
「アラ、剛さん」
「では其人は誰かと聞きますから、僕は藤野に言つたのです――僕の理想の佳人は家《うち》の姉さんである」
「剛さん、マ、何を貴郎《あなた》」と梅子はサツと、面《かほ》を紅《あ》かめぬ、
「姉さん、本当です、――すると藤野も非常に感動して、君は実に幸福だと言ひました、左様です、僕は実に幸福です、御覧なさい、藤野の佳人は忽《たちま》ち他に嫁《とつ》いで仕舞《しま》つたのです、藤野の生命は其時既に奪はれたのです、華厳滝《けごんのたき》へ投げたのは、空蝉《うつせみ》の如き冷たき藤野の屍骸です、去れど姉さん、貴嬢が独身で居なさらうとも、又結婚なさらうとも、僕は永久に貴嬢《あなた》を姉さんと呼ぶことが出来るぢやありませんか」
 黙して目を閉ぢたる姉の面《かほ》を見上げたる剛一「姉さん、僕は実に此《かく》の如く貴嬢《あなた》を敬ひ、貴嬢を慕ひ、貴嬢を信じて、何事をも隠《か》くさないものを、姉さん、貴嬢は何故、僕を信用して下ださらないですか」

     十一の二

「姉さん、僕は貴嬢が母の異《かは》つてる為めに、僕を疎遠になさるとか、悪《あし》き母より生れたる僕の故を以て……」
 梅子は、急ぎて弟《おとゝ》を遮《さへぎ》りつ「剛さん、貴郎《あなた》は何を仰《おつ》しやるんです」
「姉さん、言はせて下さイ、何卒《どうぞ》十分に言はせて下さイ――僕は常に母の不心得を、仮令《たとひ》無教育の為めとは言ひながら実に情ないことと思ふのです、大洞《おほほら》の伯父――全《まる》で不義|貪慾《どんよく》の結塊《かたまり》です、父さんの如きも何《どう》ですか、薩長|藩閥《はんばつ》と戦《たゝかつ》て十四年に政府を退き、改進党の評議員となつて、自由民権を唱へなすつた名誉の歴史を、何と御覧なさるでせう、――其れが何《どう》です、藩閥政府の未路の奴等に阿媚《あび》して、国民の膏血《かうけつ》を分けて貰つて、不義の栄耀《ええう》に耽《ふけ》り、其手先となつて昔日《むかし》の朋友《ほういう》の買収運動をさへなさるとは、姉さん、まア、何と云ふ堕落でせうか」
 剛一は姉の側に膝押し進めつ、「姉さん、僕は、此《かく》の如き人の児と生まれ、此の如き人の姪《をひ》と言はれることを耻づかしくて堪まらないのです、然《しか》るに姉さん、世間の奴等は何と云ふ破廉耻《はれんち》でせう、学校の校長でも教員でも、山木剛造の児であり、大洞利八の姪《をひ》である為めに、僕に対して特別の取扱をするんです、彼等と雖《いへど》も父《おやぢ》や伯父の不義を知らんことは無い、只《た》だ黄金に阿諛諂佞《あゆてんねい》するんです――姉さん、貴嬢《あなた》は僕に比ぶれば余程幸福です、貴嬢の実母《おつか》さんは実に偉い方であつたさうですし、父さんも未だ堕落以前の人であつたんだから――けれど其の為めに姉さんが僕を軽蔑《けいべつ》したり、何《なん》かなさる人でないことを確信してるから、嬉しいんです」
「剛さん、其様《そんな》こと言ふものぢやありません、何《ど》うぞ其様こと言はないで下ださイ」
「けれど、姉さん、何《ど》うぞ僕に言はせて下ださい、――一体僕の家は何で食つて居るんです、何で此様《こんな》贅沢《ぜいたく》が出来るんです、地代と利子と、賭博《ばくち》と泥棒とぢやありませんか――否《い》や、姉さん、少しも酷《ひど》い言ひ分ぢやありません、正直《ほんたう》のことです、――実直に働いてるものは家もなく食物もなく、監獄へ往つたり、餓死したり、鉄道往生したりして、利己主義の悪人が其の血を吸《すつ》て、栄耀栄華《ええうえいぐわ》をするとは何事です――父さんは九州炭山の大株主で重役だと云ふので、威張《ゐばつ》て居なさる、僕等は其の利益で斯《か》く安泰に生活して居るけれど、僕等を斯く安泰ならしめてる彼《か》の炭山坑夫の状態は何《ど》うです、――現に父さんでさへ、彼等を熊の如き有様だと言うて居なさるぢやありませんか、然《し》かし彼等は熊ぢやありません、人間です、同胞兄弟です、僕は彼《あ》の暖炉《ストーブ》に燃え盛る火焔《くわえん》を見て、無告の坑夫等の愁訴する、怨恨《ゑんこん》の舌では無いかと幾度《いくたび》も驚ろくのです、僕は今朝『同胞新聞』を見て実に胸を打たれたです――父さんは同胞新開を家《うち》へ入れることを禁じなさるけれど、僕は毎朝買つて見て居るんです――九州炭山の坑夫間に愈々《いよ/\》同盟が出来上がらんとして、会社の方で鎮圧策に狼狽《らうばい》してると云ふ通信が載《の》つてたのです、――僕は端《はし》なくも篠田さんが曾《かつ》て『労働者中|尤《もつと》も早く自覚するものは、尤《もつと》も世人に軽蔑《けいべつ》されて、尤も生活の悲惨を尽くしてる坑夫であらう』と予言された演説の一節を、思ひ浮べました、姉さん、篠田さんは曾《かつ》て此事を予言なされたのです」
 剛一は「篠田」の一語に力を籠《こ》めて姉の面《おもて》を見たり、
 ベンチに腰打ち掛けたるまゝ梅子は無言なり、
 剛一は少しく声をひそめつ「僕は姉さんが松島の野郎の縁談を断然拒絶なされたと聞いて、実に愉快で堪まらんのです、彼奴《きやつ》の家を御覧なさい、彼《あ》の放蕩《はうたう》を御覧なさい、軍艦のコムミッションと、御用商人の賄賂《わいろ》ぢやありませんか、――貴嬢《あなた》を妻に欲しいと云ふのも、決して貴嬢の学識や品性を重んじて言ふのぢや無い、只《た》だ貴嬢の特別財産を見込むのだ、実に失敬ナ――けれど姉さん僕は貴嬢に一つの疑問があるのです
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