」
「疑問て、剛さん」
「姉さん、貴嬢がほんたうに僕を愛し、僕を信じて下ださるなら、何卒《どうぞ》僕に打ち明けて安心させて下ださいませんか、僕は姉さんの独身主義と云ふのが解《わ》からないのです、其れは主義から出た結論でなく、境遇から来た迫害だと僕は思ふのです、――其れは貴嬢の持論に似合はぬ甚だ卑怯《ひけふ》なことだと思ふのです」
「卑怯つて何です」
「其れは、少しく言葉が過ぎたかも知れませんが、然《し》かし姉さん、旧思想の黒雲を誰か先づ踏み破る人が出なければ、世に改革の曙光《しよくわう》を見ることが出来ないと云ふのが、姉さんの主張ではありませんか、――今ま貴嬢《あなた》は啻《ただ》に旧思想のみならず、現時の不正なる勢力の裡《うち》に取り囲まれて居なさるのです、何故《なぜ》、姉さん、貴姉《あなた》は之を打ち破つて、幾百万の婦女子を奴隷《どれい》の境遇から救ふべき先導をなさいませんか、神聖なる愛情を殺して、独身主義などと云ふ遁辞《とんじ》を作りなさるのは、僕は実に大不平です」
「剛さん」
「いや、姉さん、僕は貴嬢《あなた》の理想の丈夫《ひと》を知つて居ます、貴嬢の理想の丈夫は即《すなは》ち僕の崇拝して居る所の丈夫《ひと》です、僕は実に嬉しくて堪《た》まらんのです、――僕が此の父の罪悪の家に在りながら、常に心に光明を持つことの出来るのは、姉さん、貴嬢の純潔なる愛の為めです、――此上に貴嬢の理想の丈夫の口から『我が弟よ』と呼んで貰ふことが出来るならば、僕は世界に於《おい》て外に求むる所はありません」
剛一はムンズとばかりに梅子の手を握りつ「姉さん、僕は常に篠田さんの写真に向《むかつ》て『兄さん』と小声で呼んで見るんですよ」
梅子の手は震《ふる》ひぬ、
「姉さん、僕は今でも絶えず篠田さんの教《をしへ》を受けて居るんです、篠田さんに教会放逐と云ふ侮辱を与へたものは僕の父です、父の利己心です、無論其等の事を意に介する様な篠田さんぢやない、――井上でも大橋でも脱会の決心を飜《ひるが》へしたのは、篠田さんに懇々《こん/\》説諭されたからでもありますが、姉さん、篠田さんの居ない教会に、寂しく残つて居なさる貴嬢を見棄《みす》てるに忍びないと云ふのが、尤《もつと》も著しき彼等の動機なんでしたよ」
良久《しばらく》ありて、梅子は目をしばたゝきつ、「剛さん、軽卒《めつた》なことを仰しやつてはなりません、貴郎《あなた》は篠田さんを誤解して居なさるから――」
「誤解? 誤解とは何です」
「いエ、慥《たしか》に貴郎《あなた》は誤解して居なさいます、剛さん、貴郎は篠田さんが常に洗礼のヨハネをお説きになつたことを御聴きでせう、又た実に殆どヨハネの如く生活して居なさることも御覧でせう、家庭の歓楽と云ふ如き問題は、最早《もは》や篠田さんのお心には無いのです、勿論《もちろん》彼《あ》の様なる荘厳の御精神に感動せざる女性《をんな》の心が、何処《どこ》にありませう、けれど剛さん、若し自分一人して其の愛情を獲《え》たいと思ふ女《ひと》があるならば、其れは丁度《ちやうど》申しては、失礼ですが、私共《わたしども》の父上や、貴郎の伯父上が、自分の手一つに社会の富を占領したいと思召《おぼしめ》すのと、同じ罪悪です」
夕ばえの富士の雪とも見るべき神々しき姉の面《おもて》を仰ぎて、剛一は、腕《うで》拱《こまぬ》きぬ、
鳥の群、空高く歌うて過ぐ、
十二
日露両国の間、風雲|転《うた》た急を告ぐるに連れて、梅子の頭上には結婚の回答を促《うな》がすの声、愈々《いよ/\》切迫し来れり、
継母の権威さへ遂《つひ》に梅子の前に其光を失ふに及びて、今は父剛造自ら頭《かしら》を垂れて哀願せざるべからずなりぬ、
此夜彼が「梅子、相変らずの勉強か」と、いとも柔《やは》らかに我女《わがこ》の書斎を訪《おとづ》れしも是《こ》れが為めなり、
あらゆる威嚇《いかく》、甘言、情実、誘惑に対する彼女の防禦《ばうぎよ》方法は、只だ沈黙と独身主義とのみ、流石《さすが》の剛造も今は殆《ほとん》ど攻めあぐみぬ、
「デ、梅子、私《わし》は決してお前が篠田などと関係があるの何のと思《お》もやせぬ、私はお前が其様《そんな》馬鹿と思もやせぬから少しも気には留めぬが、大洞《おほほら》が切《しき》りに其事を言ふので、誰が言うたか松島大佐も其れが為めに甚《ひど》く感色を悪るくして居たと云ふのだから、――篠田も最早《もはや》教会を除名した上は、風評《うはさ》も自然立ち消えになるであらうが、兎角《とかく》世間は五月蝿《うるさい》ものだから、一層気を付けて――ナ其れに其の新聞にもある通り」と剛造ほ梅子の机上にヒロげられたる赤新聞を一瞥《いちべつ》しつ「篠田の奴、実に怪《け》しからん放蕩漢《はうたうもの》だ、芸妓《げいしや》を誘拐《かどわか》して妾にする如き乱暴漢《ならずもの》が、耶蘇《ヤソ》信者などと澄まして居たのだから驚くぢやないか」
剛造は低頭《うつむ》ける我女《わがこ》の美くしき横顔チラと見やりて、片膝|起《た》てつ「ぢや、梅子、私《わし》は明朝一番※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車《ぎしや》で九州まで行つて来るから――是れも皆《みん》な篠田の仕業《しわざ》だ、坑夫共を煽動《せんどう》して、賃銭値上の同盟などさせをるのだ、愈々日露開戦になれば石炭が上ると云ふ所を見込んでの悪策《いたづら》だ、――歳暮ではあり、東京《こつち》の用事も手を抜く訳にならぬけれど、今日も長文の電報で、直ぐ来て呉れねば何《どん》なことになるも知れぬと云ふのだから拠《よんどころ》ない――実に梅、悪い奴共の寄合《よりあひ》だ、警視庁へ掛合つて社会党の奴等《やつら》片端から牢へでもブチ込まんぢや安心がならない、――其れで一週間程で帰る積《つもり》だから、其間に松島との縁談、能《よ》く考へて置いて呉れ、私《わし》は決してお前の利益《ため》にならぬ様なこと勧めるのぢやない、――兼てお前は別家させる横《つもり》で、小石川の地所も公債の二万円と云ふものも、既にお前の名義に書き換へて置いたのだが、嫁に行くも婿《むこ》を取るも同じことだ、――今こそ未《ま》だ大佐だが、薩州出身で未来の海軍大臣とまで望《のぞみ》を属《しよく》されて居る松島だから、梅子別段不足もあるまいぢや無いか――モー九時過ぎた、是りや梅子飛んだ勉強の邪魔した」
剛造はノサ/\と出で行けり、
* * *
徐《おもむ》ろに眼を開きたる梅子の視線は、いつしか机上に開展されたる赤紙の第三面に落ちて、父が墨もて円く標《しるし》せる雑報の上をたどるめり、
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※[#丸中黒、1−3−26]社会党の艶福、花吉の行衛《ゆくゑ》
婀娜《あだ》たる容姿は陽春三月の桜花をして艶を失はしめ、腕の凄《すご》さは厳冬半夜のお月様をして面《おもて》を掩《おほ》はしめたり、新橋両畔の美形雲の如き間に立ちて、独り嬌名《けうめい》を専《もつぱ》らにせる新春野屋の花吉が、此の頃|俄《にはか》に其の影を見せぬは、必定|函根《はこね》の湯気|蒸《む》す所か、大磯《おほいそ》の濤音《なみおと》冴《さ》ゆる辺《あたり》に何某殿《なにがしどの》と不景気知らずの冬籠《ふゆごも》り、嫉《ねた》ましの御全盛やと思ひの外、実《げ》に驚かるゝものは人心、気の知れぬと古人も言ひける麻布《あざぶ》は本村《ほんむら》の草深き篠田長二のむさくろしき屋台に大丸髷《おほまるまげ》の新女房……義理もヘチマも借金も踏み倒ふしの社会主義自由廃業の一手専売、耶蘇《ヤソ》を棄てて妻を得たとの大涎《おほよだれ》、筒ツぽ袖には拭き尽せまじ……彼が積年の偽善の仮面《めん》をば深くな咎《とが》めそ、長二君とて木から生まれた男ではごんせぬ、
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梅子は胸を押へて復《ま》た目を塞《ふさ》ぎぬ「――本当だらうか――」
十三の一
麻布本村の阪を上がり行く牛乳屋の小僧と八百屋の小僧、
「其処《そこ》の篠田さんナ、彼様《あんな》不用心な家見たことが無《ね》いぜ、暗いうちに牛乳《ちゝ》を配るにナ、表の戸を開けて裡《なか》へ置くのだ、あれで能《よ》く泥棒が這入《はひ》らねエものだ」
「ナニ、年中泥棒に遭《あ》つてるださうナ、これから広尾へ掛けて貧乏人の巣だから、堪《た》まつたもんぢやねエやナ、所がお前《めえ》言ひ分が面白いや、書生の大和ツて男《ひと》が言ふにやネ、誰も好んで泥棒などするのでは無いだから、余つてるものが在《あ》るなら、無いものに融通するのは人間の義務で、他人が困つてるのに自分ばかり栄耀《ええう》してるのが、ほんたうの泥棒だとよ」
「ふウム、一理あるナ、――所で近来|素敵《すてき》な別嬪《べつぴん》が居るぢやねエか、老母《おふくろ》付きか何かで」
「母子《おやこ》ぢや無《ね》いよ、老婆《ばゝあ》の方は月の初めから居るが、別嬪の方はツイ此頃だ、何でも新橋あたりの芸妓《げいしや》あがりだツてことだ」
「へい、筒袖《つゝツぽ》先生、マンざら袖無《そでね》エばかりでも無《ね》いと見えるナ」
「所が言葉の使ひツ披《ぷり》から察しると、其様《さう》らしくも無い、馬鹿丁寧なこと言ひ合つてるだ」
「どうも此の界隈《かいわい》にや、渡辺国武だの、津田仙《つだせん》だの、矢野二郎だの、安藤太郎だのツて一《ひ》と風《ふう》変《かは》つた連中のお揃ひだナ」「何《いづ》れ麻布七不思議ツてなことになるのだろ、ハヽヽヽヽ」
* * *
小僧等の目をさへ驚かしたる篠田方の二個《ふたり》の女性《をんな》、老いたるは芸妓殺《げいしやころし》を以て満都の口の端《は》に懸《かゝ》りたる石川島造船会社の職工兼吉の母にて、若きは近き頃迄|烏森《からすもり》に左褄《ひだりづま》取りたる花吉の変形なり、
夕日|斜《なゝめ》に差し入る狭き厨房《くりや》、今正に晩餐《ばんさん》の準備最中なるらん、冶郎蕩児《やらうたうじ》の魂魄《たましひ》をさへ繋《つな》ぎ留めたる緑《みどり》滴《したゝ》らんばかりなる丈《たけ》なす黒髪、グル/\と引ツつめたる無雑作《むざふさ》の櫛巻《くしまき》、紅絹裏《もみうら》の長き袂、しごきの縮緬《ちりめん》裂いて襷《たすき》凛々敷《りゝしく》あやどり、ぞろりとしたる裳《もすそ》面倒と、クルリ端折《はしを》つてお花の水仕事、兼吉の母は彼方《あちら》向いて竈《へつつひ》の下せゝりつゝあり、
「考へて見ると老女《おば》さん、ほんとに世の中は面白いものねエ、かうした処でお目に懸《かゝ》つて、此様《こん》なお世話さまにならうなどとは、夢にも思やしないんですもの、此頃中の私《わたし》の心と云ふものは、老女さん、昨夜《ゆうべ》もお話した様なわけでネ、自分ながら思案に暮れましたの、どうせ泥水商売してるからにや、普通《なみ》の女《ひと》の様なこと思つたからとて、詮《せん》ないことなんだから、寧《いつ》そ松島と云ふ男《ひと》の所へ行つて、思ふ存分|我儘《わがまま》を働いて遣《や》らうかなどとも迷つたりネ、自暴《やけ》になつて腹ばかり立つて、仕様《しやう》も模様も無かつたのですよ、スルと湖月の御座敷で始めて此家《こちら》の先生様にお目に掛りましてネ、兼吉さんと米ちやんとのお話を承はつてる中に、私の心が妙な風に成つて来ましてネ、仮令《たとひ》女性《をんな》の節操《みさを》を涜《けが》したものでも、其が自分の心から出たのでないならば、咎《とが》めるに及ばぬと仰《おつ》しやつたお言葉が、ヒシと私の胸を刺《さし》ましたの、して見ると私などでも余り世間を怨んで、ヒガミ根性《こんじやう》ばかり起さんでも、是れからの心の持ち様一つでは、人様の前へ顔出しが出来るやうになれるかと不図《ふと》思ひ浮かびましてネ、其れから二日二晩と云ふもの考へ通しましたけれど、如何《どう》したら可《い》いのか少しも方角が付かぬぢやありませんか、一つ篠田様にお願申して見る外無いと思ひましてネ、二日
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