火の柱
木下尚江
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)是《こ》れより
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)諸友|切《しき》りに
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)母※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《おやどり》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)グル/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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序に代ふ
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是《こ》れより先き、平民社の諸友|切《しき》りに「火の柱」の出版を慫慂《しようよう》せらる、而《しか》して余は之に従ふこと能《あた》はざりし也、
三月の下旬、余が記名して毎日新聞に掲《かゝ》げたる「軍国時代の言論」の一篇、端《はし》なくも検事の起訴する所となり、同じき三十日を以て東京地方裁判所に公判開廷せらるべきの通知到来するや、廿八日の夜、余は平民社の編輯室《へんしふしつ》に幸徳《かうとく》、堺《さかひ》の両兄と卓を囲んで時事を談ぜり、両兄|曰《いは》く君が裁判の予想|如何《いかん》、余曰く時《とき》非《ひ》なり、無罪の判決元より望むべからず、両兄|曰《いは》く然《しか》らば則《すなは》ち禁錮|乎《か》、罰金乎、余曰く余は既に禁錮を必期《ひつき》し居《を》る也、然れ共|幸《さいはひ》に安んぜよ、法律は遂《つひ》に余を束縛すること六月以上なる能はざるなり、且《か》つや牢獄の裡《うち》幽寂《いうせき》にして尤《もつと》も読書と黙想とに適す、開戦以来|草忙《さうばう》として久しく学に荒《すさ》める余に取《とつ》ては、真に休養の恩典と云ふべし、両兄曰く果して然るか、君が「火の柱」の主公|篠田長二《しのだちやうじ》を捉《とら》へて獄裡《ごくり》に投じたるもの豈《あ》に君の為めに讖《しん》をなせるに非ずや、君何ぞ此時を以て断然之を印行《いんかう》に付せざるやと、余の意|俄《にはか》に動きて之を諾して曰く、裁判の執行|尚《な》ほ数日の間《かん》あり、乞ふ今夜|直《ただち》に校訂に着手して、之を両兄に託さん入獄の後《のち》之を世に出だせよ、
斯くて九時、余は平民社を辞して去れり、何ぞ知らん、舞台は此瞬間を以て一大廻転をなさんとは、
余が去れる後数分、警吏は令状を携《たづさ》へて平民社を叩《たゝ》けり、厳達して曰く「鳴呼《あゝ》増税」の一文、社会の秩序を壊乱するものあり依《よつ》て之を押収《あふしふ》すと、
四月|一日《いちじつ》を以て余は判決の宣告を受けぬ、四月二日を以て堺兄の公判は開廷せられぬ、而して其の結果は共に意外なりき、余は罰金に処せられたり、堺兄は軽禁錮三月に処せられたり、而して平民新聞は発行禁止の宣告を受けたるなり、平民社は直に控訴の手続に及びぬ、
其の九日の夜、平民社演説会を神田の錦輝舘《きんきくわん》に開けり、出演せるもの社内よりは幸徳、堺、西川の三兄、社外よりは安部《あべ》兄と余となりき、演説終つて後、堺兄の曰く、来る十二日控訴の公判開かれんとし花井、今村の諸君弁護の労を快諾せられぬ、然《しか》れ共我等同志が主義主張の故を以て法廷に立つこと、今後必ずしも稀《まれ》なりと云ふべからず、此際我等の主張を吐露して之を国権発動の一機関たる法廷に表白する、豈《あ》に無益のことならんやと、一座賛同、而《しか》して余|遂《つひ》に其の選に当りて弁護人の位地に立つこととなれり、
十二日は来れり、公判は控訴院第三号大法廷に開《ひらか》れぬ、堺兄に先《さきだ》ちて一青年の召集不応の故を以て審問せらるゝあり、今村力三郎君弁護士の制服を纏《まと》ひて来り、余の肩を叩いて笑つて曰く、君近日|頻《しき》りに法廷に立つ、豈《あ》に離別の旧妻に対して多少の眷恋《けんれん》を催《もよ》ほすなからんやと、誠に然り、余が弁護士の職務を抛《なげう》つてより既《すで》に八星霜、居常《きよじやう》法律を学びしことに向《むかつ》て遺憾《ゐかん》の念なきに非ざりしなり、今ま我が親友の為めに同志を代表して法廷に出づるに及び、余が不快に堪へざりし弁護士の経験が、決して無益に非ざりしことを覚り、無限の歓情《くわんじやう》禁ずべからざりし也、
既にして彼《か》の青年の裁判は終了せり、而《しか》して堺兄は日本に於ける社会主義者の代表者として「ボックス」の中に立てり、
判事の訊問あり、検事の論告あり、弁護人の弁論あり、而して午後二時公判は終了を告げぬ、
越えて十六日、判決は言ひ渡たされぬ、堺兄は軽禁錮二月に軽減せられたり、而して発行禁止の原判決は全然取り消されたり、
吾人は堺兄の為に健康を祈ると共に、「発行禁止」の悪例の破壊せられたることを深く感謝せずんばあらず、
桜花雨に散りて、人生|恨《うらみ》多《おほ》き四月の廿一日堺兄は幼児を病妻に托して巣鴨の獄に赴《おもむ》けり、而して余は自ら「火の柱」の印刷校正に当らざるべからず、是れ豈《あ》に兄が余に出版を慫慂《しようよう》し、而して余が突嗟《とつさ》之を承諾したる当夜の志《こゝろざし》ならんや、只《た》だ「刑余の徒」たるの一事のみ、兄《けい》と余と運命を同《おなじ》ふする所也、
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枯川兄を送れるの日、毎日新聞社の編輯局に於て
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]木下尚江
一の一
時は九月の初め、紅塵《こうぢん》飜《ひるが》へる街頭には尚《な》ほ赫燿《かくやく》と暑気の残りて見ゆれど、芝山内《しばさんない》の森の下道《したみち》行く袖には、早くも秋風の涼しげにぞひらめくなる、
「ムヽ、是《こ》れが例の山木剛造《やまきがうざう》の家なんか」と、石造《せきざう》の門に白き標札打ち見上げて、一人のツブやくを、伴《つれ》なる書生のしたり顔「左様《さう》サ、陸海軍御用商人、九州炭山株式会社の取締、俄大尽《にはかだいじん》、出来星《できぼし》紳商山木剛造殿の御宅は此方《こなた》で御座いサ」
「何だ失敬な、社会の富《とみ》を盗んで一人の腹を肥《こ》やすのだ、彼《あ》の煉瓦の壁の色は、貧民の血を以て塗つたのだ」
「ハヽヽヽ、君の様に悲観ばかりするものぢや無いサ、天下の富を集めて剛造|輩《はい》の腹を肥《こや》すと思へばこそ癪《しやく》に障《さは》るが、之を梅子と云ふ女神《めがみ》の御前《おんまへ》に献げると思《お》もや、何も怒るに足らんぢや無いか」
「貴様は直ぐ其様《そんな》卑猥《ひわい》なことを言ふから不可《いか》んよ」
「是《こ》れは恐れ入つた、が、現に君の如き石部党《いしべたう》の旗頭《はたがしら》さへ、彼《あ》の女神の為めには随喜の涙を垂れたぢや無いか」
「嘘《うそ》言ふな」
「嘘《うそ》ぢや無いよ、僕は之を実見したのだから弁解は無用だよ」
「嘘言へ」
「剛情な男だナ、ソレ、此の春上野の慈善音楽会でピアノを弾《ひ》いた佳人が有《あ》つたらう、左様《さう》サ、質素な風をして、眼鏡を掛けて、雪の如き面《かほ》に、花の如を唇《くちびる》に、星の如き眸《ひとみ》の、――彼女《かれ》が即《すなは》ち山木梅子嬢サ」
「貴様、真実《ほんたう》か」
と彼《か》の書生は、木立の間《ま》なる新築の屋根を顧《かへり》みつゝ「何《ど》うも不思議だナ、僕は殆《ほとん》ど信ずることが出来んよ」
「懐疑は悲観の児《こ》なりサ、彼女《かれ》芳紀《とし》既に二十二―三、未《いま》だ出頭《しゆつとう》の天《てん》無しなのだ、御所望とあらば、僕|聊《いさゝ》か君の為めに月下氷人《げつかひようじん》たらんか、ハヽヽヽヽヽ」
「然《し》かし、貴様、剛造の様な食慾無情の悪党に、彼《あゝ》いふ令嬢《むすめ》の生まれると云ふのは、理解すべからざることだよ」
「が、剛造などでも、面会して見れば、案外の君子人かも知れないサ」
「そんなことがあるものか」
丸山の塔下を語りつゝ、飯倉《いひくら》の方へと二人は消えぬ、
客去りて車轍《くるま》の迹《あと》のみ幾条《いくすぢ》となく砂上に鮮《あざや》かなる山木の玄関前、庭下駄のまゝ枝折戸《しをりど》開けて、二人の嬢《むすめ》の手を携《たづさ》へて現はれぬ、姉なるは白きフラネルの単衣《ひとへ》に、漆《うるし》の如き黒髪グル/\と無雑作《むざふさ》に束《つか》ね、眼鏡越しに空行く雲静かに仰ぎて、独りホヽ笑みぬ、
今しも書生の門前を噂《うはさ》して過ぎしは、此の女《ひと》の上にやあらん、紫《むらさき》の単衣《ひとへ》に赤味帯びたる髪|房々《ふさ/\》と垂らしたる十五六とも見ゆるは、妹《いもと》ならん、去《さ》れど何処《いづこ》ともなく品格《しな》いたく下《くだ》りて、同胞《はらから》とは殆《ほとん》ど疑はるゝばかり、
「ぢや、姉《ねい》さんは何方《どちら》が好《すき》だと仰《おつ》しやるの」と、妹は姉の手を引ツ張りながら、面《かほ》顰《しか》めて促《うな》がすを、姉は空の彼方《あなた》此方《こなた》眺《なが》めやりつゝ、
「あら、芳《よツ》ちやん、私は好《すき》も嫌《きらひ》も無いと言つてるぢやありませんか」
「けれど姉さん、何方《どつち》かへ嫁《ゆ》くとお定《き》めなさらねばならんでせう、両方へ嫁くわけにはならないんだもん」
「左様《さう》ねエ、ぢや私、両方へ嫁きませうか」と、姉は振り返つて嫣然《につこ》と笑ふ、
「酷《ひど》いワ、姉さん、からかつて」と、妹は白い眼して姉を睨《にら》みつ、じつと身を寄せて又《ま》た取り縋《す》がり「ね、姉さん、松島|様《さん》の方にお定《き》めなさいよ、私《わたし》、松島さん大好きだわ、海軍大佐ですつてネ、今度|露西亜《ロシヤ》と戦争すれば、直《す》ぐ少将におなりなさるんですと――ほんたうに軍人は好《い》いわ、活溌《くわつぱつ》で、其れに陸軍よりも海軍の方が好くてよ、第一|奇麗《きれい》ですものネ、其れでネ、姉さん、昨夜《ゆうべ》も阿父《おとつさん》と阿母《おつかさん》と話して在《いら》しつたんですよ、早く其様《さう》決《き》めて松島様の方へ挨拶《あいさつ》しなければ、此方《こちら》も困まるし、大洞《おほほら》の伯父さんも仲に立つて困まるからつて」
「芳ちやんは軍人がお好きねエ」
「ぢや、姉さんは、あの吉野とか云ふ法学士の方が好いのですか、驚いたこと、彼様《あんな》ニヤけた、頭ばかり下げて、意気地《いくじ》の無い」
「左様《さう》ぢや無いの、芳ちやん」と、姉は静に妹を制しつ
「私《わたし》はネ、誰の御嫁にもならないの」
妹は眼を円くして打ち仰ぎぬ「――ほんたう」
一の二
折柄門の方《かた》に響く足音に、姉の梅子は振り返へりつ、
「長谷川牧師が光来《いら》しつてよ」
色こそ褪《あ》せたれ黒のフロックコート端然と着なしたる、四十|恰好《かつこう》の浅黒き紳士は莞爾《くわんじ》として此方《こなた》に近《ちかづ》き来《きた》る、是《こ》れ交際家として牧師社会に其名を知られたる、永阪教会の長谷川|某《なにがし》なり、
妹の芳子は頬《ほほ》膨《ふく》らし、
「厭《いや》な奴ツ」とツブやくを、梅子は「あら」と小声に制しつ、
牧師は額の汗|拭《ぬぐ》ひも敢《あ》へず、
「これは/\、御揃《おそろ》ひで御散歩で在《い》らつしやいまするか、オヽ、『黒』さんも御一緒ですか」と、芝生に横臥《わうぐわ》せる黒犬にまで丁重に敬礼す、是れなん其仁《そのじん》、獣類にまで及べるもの乎《か》、
「エヽ、本日《けふ》罷《まか》り出でまする様《やう》と、御父上から態々《わざ/\》のお使に預りまして」と、牧師は梅子の前に腰打ち屈《かが》めつ「甚《はなは》だ遅刻致しまして御座りまするが、御在宅で在《い》らせられまするか」
妹嬢《いもとむすめ》は黙つて何処《いづこ》へか去《い》つて仕舞ひぬ、
「御光来《おいで》を願ひましたさうで御座いまして、誠に恐れ入りました」と、梅子の言ふを、
「イエ、なに、態々《わざ/
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