\》と申すでは御座りませぬ、外《ほか》に此の方面へ参る所用も御座りまする、其れに久しく御父上には拝顔を得ませんで御座りまするから」
 牧師は身を反《そら》らしてニヤ/\と笑ひぬ、
 梅子に導かれて牧師は壮麗なる洋風の応接室に入《い》りぬ、
 待つ間|稍々《やゝ》久しくして主人《あるじ》は扉を排して出で来りぬ、でつぷり肥《ふと》りたる五十前後の頑丈造《ぐわんぢやうづく》り、牧師が椅子《いす》を離れての慇懃《いんぎん》なる挨拶《あいさつ》を、軽《かろ》くも顋《あご》に受け流しつ、正面の大椅子にドツかとばかり身を投げたり、
「御来宅《おいで》を願つて甚《はなは》だ勝手過ぎたが、少《す》こし御注意せねばならぬことがあるので」と、葉巻莨《はまきたばこ》の烟《けむり》多《ふと》く棚引《たなび》かせて
「他《ほか》でも無い、例の篠田長二《しのだちやうじ》のことであるが、近頃何か頻《しき》りに非戦論など書き立てて居《を》るさうだ、勿論《もちろん》彼奴等《きやつら》の『同胞新聞』など言ふものは、我輩などの目には新聞とは思へないので、何《どう》せ狂気染みた壮士の空論、元より歯牙《しが》に掛ける必要もないのだが、然《し》かし此頃娘共の話《はなし》して居た所を聞くと、近来教会に於《おい》ても、耶蘇《ヤソ》教徒は戦争に反対せにやならぬなど、無法なことを演説すると云ふことだが、」
 牧師は恐る/\口を開き「さ、其件に就きましては私《わたくし》も一方ならず、心痛致し居りまするので」と弁せんとするを、剛造は莨《たばこ》の灰もろ共に払ひ落としつ「其《それ》に梅子などは何《どう》やら其の僻論《へきろん》に感染して居るらしいので、大《おほい》に其の不心得を叱つたことだ、特《こと》に近頃|彼女《あれ》の結婚に就《つい》て相談最中のであるから、万一にも社会党等の妄論《ばうろん》などに誤られる様なことがあらば、其れこそ彼女ばかりでは無い、山木一家《やまきいつけ》に取つて由々しき大事なのである、で、今日君を御呼び立て致したのは、社会党を矢張り教会に入れて置かるゝ御心得か如何《どうか》を承つて、其上で子女等《こどもら》を教会へお預けして置くか如何を決定したいと思ふのである」
 牧師は俯《ふ》して沈黙す、
 剛造はジロリ其を見やりつ「苟《いやしく》も山木の家族が名を出して居る教会に、社会党だの、無政府党だのと云ふバチルスを入れて置かれては、第一我輩の名誉に関することで、又た彼《あ》の様な其筋で筆頭の注意人物を容《い》れ置くと云ふのは、教会の為めにも不得策だらう、彼様《あんな》乱暴な人物も耶蘇教信者だと云ふので、無智漢の信用を繋《つな》いで居《ゐ》るのだから」

     一の三

 牧師は僅《わづか》に頭を擡《もた》げぬ、
「御立腹の段は誠に御尤《ごもつとも》で、私《わたくし》に於ても一々御同感で御座りまする、が、只《た》だ何分にも篠田が青年等の中心になつて居りまするので」
「さ、其のことである」と、剛造は吻《くちばし》を容《い》れぬ、「危険と言ふのは其処である、卵の如き青年の頭脳へ、杜会主義など打ち込んで如何《どう》する積《つもり》であるか、ツイ先頃も私《わし》が子女等《こどもら》の室を見廻はると、長男《せがれ》の剛一が急いで読んで居た物を隠すから、無理に取り上げて見ると、篠田の書いた『社会革新論』とか云ふのだ、長谷川君、少しは考へて貰ひたいものだ、教会へは及ばずながら多少の金を取られて居《を》る、而《さう》して家庭《かない》へ禍殃《わざはひ》の種子《たね》を播《ま》かれでも仕《し》ようものなら、我慢が出来るか如何《どう》だらう」
 牧師は頻《しき》りに額の汗を拭《ぬぐ》ひつ、
「御尤《ごもつとも》で御座りまする」
「元来を言へば長谷川君、初め篠田如き者を迂濶《うくわつ》に入会を許したのが君の失策である、如何《どう》だ、彼《あ》の新聞の遣《や》り口《くち》は、政府だの資産あるものだのと見ると、事の善悪に拘《かゝは》らず罵詈讒謗《ばりざんばう》の毒筆を弄《もてあそ》ぶのだ、彼奴《きやつ》が帰朝《かへ》つて、彼の新聞に入つて以来、僅《わづ》か二三年の間に彼の毒筆に負傷《けが》したものが何人とも知れないのだ、私《わし》なども昨年の春、毒筆を向けられたが――彼奴等《きやつら》の言ふ様な人道とか何とか、其様《そんな》単純なことで坑夫等の統御が出来るものか、少しは考へて見るが可《い》いのだ、石炭坑夫なんてものは、熊か狼だ、其れを人間扱ひにせよと云ふのが間違つて居るぢや無いか、彼《あ》の時にも君に放逐《はうちく》する様に注意したのだが、自分のことで彼此《かれこれ》云ふのは、世間の同情を失ふ恐《おそれ》があるからと君が言ふので、其れも一理あると私《わし》も辛棒したのだ、今度は、君、少しも心配するに及ぶまい、日露戦争に反対するのだから、即《すなは》ち売国奴《ばいこくど》と言ふべきものでは無いか」
 牧師は額押へて謹聴し居たりしが、やがて少しく頭を揚げつ「――一々御同感で御座りまするので――が、何分にも御承知の如き尋常《なみ/\》ならぬ男なので御座りまするから、執事等も陰では皆な苦慮致し居りまするものの、誰も言ひ出し兼ねて居るので御座ります――如何《いかが》で御座りませう、御足労ながら貴方から一言教会へ直接に御注意下さりましては、多分一同待ち望んで居ることと思はれまするので――」
「私《わし》が教会などへ行つて居《を》れると思ふか」と、剛造は牧師を睨《にら》みつ「私《わし》は体の代りに黄金《かね》を遣《や》つてある筈《はず》だ――イヤ、牧師ともあるものが左様《さやう》に優柔不断ならば、私の方にも心得がある、子女等《こどもら》も向後一切教会へは足踏みもさせないことに仕《し》よう」
「ア、山木さん、御立腹では恐れ入りまする」と、牧師は周章《あわただ》しく剛造をなだめ、
「宜《よろ》しう御座りまする、私《わたくし》も兼ねて其の心得で居りましたのですから、早速執事等とも協議の上、至急|御挨拶《ごあいさつ》に及ぶで御座りませう」
「ウム、ぢや、早速|左様《さう》云ふことに」
 剛造の面《かほ》和《やはら》ぎたるに、牧師もホとばかりに胸撫で下ろしつ、
「ツイ失念致し居りまして御座りまするが、京都育児慈善会から貴方へ厚く御礼申上げ呉れる様にと精々申して参りました、沢山《たくさん》に義揖《ぎえん》を御承諾下ださいましたので、京阪地方の富豪を説くにも誠に好都合になりましたさうで、我国でのモルガン、ロックフェラアと言《いふ》べきであらうなど、非常に貴方を称讃して寄越《よこし》まして御座りまする」
「なに、ロックフェラアか、いや、ロックフェラアも近頃の不景気では思ふ様に慈善も出来ない」と、剛造は反《そ》り返つて呵々《かゝ》と大笑せり、
 牧師も愈々《いよ/\》笑《ゑみ》傾《かたむ》け「新聞で拝見致しましたが、今回九州地方の石炭会社の同盟して露西亜《ロシヤ》へ石炭販売を禁止なされたのも、貴方《あなた》の御発意と申すことで、実業界から斯《か》かる愛国の手本が出ますると云ふのは、実に近来の快事で御座りまする」
「ハヽヽヽヽ」と剛造は一《ひ》ときは高笑ひ「商売にしてからが、矢ツ張り忠君愛国と言つたやうな流行の看板を懸《か》けて行くのサ」
 剛造はやをら立ち上がりつ、
「長谷川君、伝道なども少こし融通《ゆうづう》の利《き》くやうに頼みますよ、今も言ふ通り梅子の結婚談で心配して居るんだが、信仰が如何《どう》の、品行が如何のと、頑固《ぐわんこ》なことばかり言うて困らせ切つて仕舞ふのだ、耶蘇《ヤソ》でも仏でも無宗教でも構ふことは無い、男は必竟《つまり》人物にあるのだ、さうぢや無いか、一夫一婦なんてことは、日本では未《ま》だ時期が早いよ――ぢや、君、今の篠田の一件を忘れないやうに、是《こ》れで失敬する、家内《かない》の室ででも悠然《ゆつくり》遊んで行き給へ」
 莨《たばこ》の煙|一抹《いちまつ》を戸口に残してスラリ/\と剛造は去りぬ、
 牧師は独《ひと》り思案の腕を組みつ、

     二の一

 夜は十時を過ぎぬ、二等煉瓦の巷《ちまた》には行人既に稀《まれ》なるも、同胞新聞社の工場には今や目も眩《ま》ふばかりに運転する機械の響|囂々《がう/\》として、明日《あす》の新聞を吐き出だしつゝあり、板敷の広き一室、瓦斯《ガス》の火|急《せは》し気《げ》に燃ゆる下に寄り集《つど》ふたる配達夫の十四五名、若きあり、中年あり、稍々《やゝ》老境に近づきたるあり、剥《はげ》たる飛白《かすり》に繩の様なる角帯せるもの何がし学校の記章打つたる帽子、阿弥陀《あみだ》に戴《いただ》けるもの、或は椅子に掛かり、或は床《とこ》に踞《すわ》り、或は立つて徘徊《はいくわい》す、印刷|出来《しゆつたい》を待つ間《ま》の徒然《つれづれ》に、機械の音と相競うての高談放笑なかなかに賑《にぎ》はし、
 三十五六の剽軽《へうきん》らしき男、若き人達の面白き談話に耳傾けて居たりしが、やがてポンと煙管《きせる》を払ひて「書生さん方、お羨《うらや》ましいことだ、同し配達でもお前さん達は修業金の補充《たしまい》に稼ぐだが、私抔《わたしなど》を御覧なせい、御舘《おやかた》へ帰つて見りや、豚小屋から臀《しり》の来さうな中に御台所《みだいどころ》、御公達《ごきんだち》、御姫様方と御四方《およつかた》まで御控へめさる、是《これ》で私《わし》が脚気《かつけ》の一つも踏み出したが最後、平家の一門同じ枕に討死《うちじに》ツてつた様な幕サ、考へて見りや何の為めに生れて来たんだか、一向《いつかう》合点《がてん》が行かねエやうだ」
 踞《しやが》んで居たる四十|恰好《かつかう》の男「さうよ、でも此の新聞社などは少《す》こし毛色が変はつてるから、貧乏な代りに余り非道も遣《や》らねいが、外の社と来たら驚いちまはア、さんざん腹こき使つた上句《あげく》、体が悪くなつたからつて逐《お》つ払ひよ、チヨツ、誰の為めに体が悪くなつたんだ」
 フカリ/\烟草《たばこ》を吹かし居たる柔順《おとなし》やかなる爺《おやじ》「年増《としま》しに世の中がヒドくなるよ、俺の隣に砲兵工廠へ通ふ男があつたが、――なんでも相当に給料も取つてるらしかつたが、其れが出しぬけにお払函《はらひばこ》サ、外国から新発明の機械が来て、女でる間に合ふからだと云ふことだ」
 彼《か》の剽軽《へうきん》なる男「フム、ぢやア逐々《おひ/\》女が稼《かせ》いで野郎は男妾《をとこめかけ》ツたことになるんだネ、難有《ありがた》い――そこで一つ都々逸《どゝいつ》が浮んだ『私《わたし》ヤ工場で黒汗流がし、主《ぬし》は留守番、子守歌』は如何《どう》だ、イヤ又た一つ出来た、今度は男の心意気よ『工場の夜業で嬶《かゝあ》が遅い、餓鬼《がき》はむづかる、飯《めし》や冷える』ハヽヽヽ是れぢや矢ツ張り遣《や》り切れねい」
「所が、お前《めい》、女房は産後の肥立《ひだち》が良くねえので床に就いたきり、野郎は車でも挽《ひ》かうツて見た所で、電車が通じたので其れも駄目よ、彼此《かれこれ》する中に工場で萌《きざ》した肺病が悪くなつて血を吐く、詮方《せうこと》なしに煙草の会社へ通つて居た十一になる娘を芳原《よしはら》へ十両で売《うつ》て、其《それ》も手数の何のツて途中へ消えて、手に入つたのは僅《たつ》たお前、六両ぢやねいか、焼石に水どころの話ぢやねエ、其処《そこ》で野郎も考へたと見える、寧《いつ》そ俺と云ふものが無かつたら、女房も赤児《あかんぼ》も世間の情の陰で却《かへつ》て露の命を継《つな》ぐことも出来ようツてんで、近所合壁へ立派に依頼状《たのみじやう》を遺《のこ》して、神田川で土左衛門よ」
「成程そんな新聞を見た覚《おぼえ》もある」と誰やらが言ふ、
「あんな大した腕持つてる律義《りちぎ》な職人でせエ此の始末だ、さうかと思《お》もや、悪い泥棒見たいな奴が立身して、妾《めかけ》置いて車で通つて居る、神も仏もあつたもんぢやねエ」
 秋の夜の更《ふ》け行く風、肌に浸《し》みて一
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