こ》に取る程|狂気《きちがひ》にはなりませんからな、マア/\御安心の上、一日も早く砲火《ひぶた》を切つて私共《わたしども》に儲《まうけ》さして下ださい」
「しかし大洞、山木の娘も篠田と同じ耶蘇《ヤソ》だと云ふぢやないか」
「松島さん、貴下《あなた》の様に気を廻しなすつちや困まる、山木も篠田には年来の怨恨《うらみ》がありますので、到頭《たうとう》教会から逐《お》ひ出させたと、妹《いもと》の話で御《お》わしたが、女敵《めがたき》退散となつた上は、御心配には及びますまい、ハヽヽヽヽ」
「ウム、其れは先《ま》づ其れとしても、君、山木が早く取定《とりきめ》ないのは不埒《ふらち》極まる、今日《こんにち》まで彼を庇護《ひご》して遣つたことは何程《どれほど》とも知れたもンぢやない、彼《あ》の砂利の牛肉鑵詰事件の時など新聞は八釜《やかま》しい……」
 と言ひ掛くるを、大洞あわてて押し留めつ
「松島さん、そんな旧傷《ふるきず》の洗濯は御勘弁を願ひます、まんざら御迷惑の掛け放しと云ふ次第でも無《なか》つた様で御《ご》わすから」
「それから彼《あ》の靴の請負《うけおひ》の時はドウだ、糊付けの踵《かゝと》が雨に離れて、水兵は繩梯《はしご》から落ちて逆巻《さかま》く濤《なみ》へ行衛《ゆくゑ》知れずになる、艦隊の方からは劇《はげ》しく苦情を持ち込む、本来ならば、彼時《あのとき》山木にしろ、君にしろ、首の在《あ》る筈《はず》が無いのぢやないか」
「御尤《ごもつとも》至極《しごく》、であればこそ、松島大明神と斯《か》く随喜渇仰致すでは御《お》わせんか――ドウしたのか、花吉、ベラ棒に手間が取れる」
 今は大洞受け太刀となつて、シドロモドロの折こそあれ、襖《ふすま》スウと開《あ》いて顔を見せしは、――女将《ぢよしやう》のお才「どうも松島さん、御気の毒様ですことねエ、是《これ》も流行妓《はやりつこ》を情婦《いろ》にした刑罰《むくい》ですヨ、――待つ身のつらさが御解《おわかり》になりましたでせう、ホヽヽヽヽヽ」

     九の一

 松島海軍大佐をして愛妓花吉を待つに堪へざらしめたる湖月亭の宴会とは、何某《なにがし》と言へる雑誌記者の、欧米漫遊を壮《さかん》にする同業知人等の送別会なりけり、
 五ツの座敷ブチ抜きたる大筵席《だいえんせき》は既に入り乱れて盃盤《はいばん》狼藉《らうぜき》、歌ふもあれば跳《は》ねるもあり、腕を撫《ぶ》して高論するもの、妓《ぎ》を擁して喃語《なんご》するもの、彼方《かなた》に調子外れの浄瑠璃《じやうるり》に合はして、絃《いと》をあやつる老妓あれば、此方《こなた》にどたばた逐《お》ひまくられて、キヤツと玉切《たまぎ》る雛妓《すうぎ》あり、玉山|崩《くづ》れて酒煙|濛々《もう/\》、誠に是《こ》れ朝《あした》に筆を呵《か》して天下の大勢を論じ去る布衣《ふい》宰相諸公が、夕《ゆふべ》の脚本体なりける、
 一隅に割拠《かつきよ》したる五六の猛士、今を盛りの鯨飲《げいいん》放言、
「だが、君、今夜の最大奇観とも謂《いひ》つべきは、篠田長二の出て来たことだ、幹事の野郎も随分《ずいぶん》人が悪いよ、餅月と夏本の両ハイカラの真中《まんなか》へ、彼《あ》の筒袖《つゝツぽ》を安置したなどは」
「所が当人、其を侮辱とも何とも感じないのだから恐れ入るんだ」
「人間も彼程《あれほど》に常識《コンモンセンス》を失へば気楽なものサ」
「見給へ、彼奴《きやつ》未だ四角張つて何か言つてるぜ」
「ヤ、相手が珍報社の丸井隠居ぢや、是《これ》こそ天然《てんねん》の滑稽《こつけい》ぢや」
 折柄、ツヽと小急ぎに行き過ぐる廿一二の芸妓《げいしや》を、早くも見て取つたる一人声振り上げ「其れへ打たせ玉ふは、烏森《からすもり》に其人ありと知られたる新春野屋の花吉殿ならずや」呼ばれて芸妓は振り向きつ「オヽ、左《さ》言《い》ふ貴殿は河鰭氏《かはひれうぢ》」と晴やかなる眼《まなこ》に笑《ゑみ》を含めて、きツと宜《よろ》しく睨《にら》まへれば「よウ菊三郎ウ」と、何れも手を拍《う》つてザンザめく、
「あら、可《よ》う御座んすよ、たんと御なぶり遊ばせ」と、忽《たちま》ち砕けで群に加はる花吉を、相格《さうがう》崩しての包囲攻撃、
「近来又た海軍の松島を捕獲したツてぢやないか」「花吉の凄腕《せいわん》真に驚くべしだ」「露西亜《ロシヤ》に対する日本の態度の曖昧《あいまい》なのも、君の為めだと云ふ噂《うはさ》だぞ」「松島君に忠告して早く戦争《いくさ》する様にして呉れ給へ」「露西亜との軍費を捲《ま》き上げて、之を菊三郎への軍費に流用する所、好個の外務大臣だ」誠《まこと》や筆を執《と》つては鷺《さぎ》を烏となし、灰吹から竜をも走しらす記者諸君を、只だ三寸の鴬舌《あうぜつ》もて右に左に叩たき伏せ、有り難たがらせて余ある所、好個の外務大臣とも言ふべかりける、「時に」と、河鰭《かはひれ》は真赤に酔うたる顔突き出し「是《ぜ》ツ非《ひ》、花ちやんに御依頼の件があるのだが」とサヽやくを、
「身に協《かな》ふことならば」と、花吉の芝居懸《しばゐがか》りに行く、
「否《い》や、戯謔《じやうだん》ぢやない、今度は真面目《まじめ》の話だ――ソレ、彼《あ》の向ふに北海道土人の阿房払《あはうばらひ》宜しくと云ふ怪物《けだもの》が居るだらう、サウ/\、あの丸井の禿顱《はげ》と話してる、――彼奴《あいつ》誠に人情を解せん石部党で、我々同業間の面汚《つらよごし》のだ、其処《そこ》で今夜|彼奴《きやつ》の来たのを幸《さいはひ》に、我党の人にして遣《や》らうと思ふんだ」
「河鰭さんの我党などにはならない方が可《よ》う御座んすよ」
「オイ/\飛んだことを言ふ――デ、彼奴《きやつ》に一杯、酒を飲ませて遣《やら》うと思ふんだが、我々の手では駄目だから、是《こゝ》に於《おい》てか花吉大明神の御裾にお縋《すが》り申すのだ」
 妙案々々、賛成々々など何《いづ》れも叫ぶ、
「人がましくも、殿方が頭《つむり》を下げての御依頼《おんたのみ》とあるからは、そりや随分火の中へも這入《はひ》りませう、してお名前は」
「篠田ツて言ふのだ、同胞新聞の篠田」
「ヘエ、篠田さん、ぢや、あの、自由廃業をおやりなすつた方でせう」
「さうだ/\、其のとほりの野暮天《やぼてん》なんだから、是非花ちやんの済度《さいど》を仰ぐのだ」
「其に彼奴《きやつ》は非戦争論者で松島君の仇敵なんだ」と叫ぶもあり、
「花ちやん、一つ松島君を操縦するの余力を以て」と河鰭の言ふを「そんな、お弄《なぶ》りなさるなら、否《い》や」とツンとスネる、
「真平々々《まつぴら/\》、是れだ/\」と手を合はすを、
「驚いたことねエ、河鰭さん、」と微笑《ほゝゑ》みつゝ花吉は、小盃《ちよく》を手にしてスイと起てり、

     九の二

 一隅の数名は、何れも酔眼を上げ、視線を花吉に注ぎつつあり、三々伍々と入り乱れたる会衆の間を縫ひつゝ花吉は、ヤガて篠田が座を占めたる他の一隅にぞ進みける、花吉は顧みて河鰭等と遙《はるか》に目くばせしつ、ピタリ座に着きて膝を進めぬ、「篠田さん、――河鰭さんから」
 談話に余念なかりし篠田は、始めて顔を上げぬ、看《み》よ、一個の佳人、慇懃《いんぎん》に盃《さかづき》を捧げつゝあり、
 篠田は膝《ひざ》に手を置きて「私《わたし》は酒を用ひませぬから」
「お手にだけなりともおとり遊ばせ」
「イヤ、私《わたし》は一切、用ひませぬから」
 丸井老人ニユウと禿顱《はげあたま》突き出しつ「花ちやん、篠田先生は御禁酒のだから無駄でげすよ、と云うて美人に使命を全うせしめざるも、心なき業《しわざ》なり、斯《か》かる時局切迫の調和機関、中立地帯とも言ふべかる丸井玉吾、一つ先生の代理と行きやせう」言ひつゝヒヨイと猿臂《ゑんぴ》を延ばして、彼女《かれ》の手より盃《さかづき》を奪へり、
「アラ」
「げに、酒は美人に限ること古今相同じでげす」と丸井玉吾既に一盞《いつさん》を傾け尽くしつ「イヤ、どうも御禁酒の方《かた》の代理と云ふ法も無《ない》わけでげすな、先生、飛んだ失礼を――」と、彼は奇麗《きれい》に光る禿顱《とくろ》を燈下に垂れて、ツル/\と撫《な》で上げ撫で下ろせり、花吉は絹巾《ハンケチ》に失笑《をかしさ》を包みて、窃《そ》と篠田を見つ、
「今もネ、花ちやん」と丸井老人は真面目顔「例の芸妓殺《げいしやころし》――小米《こよね》の一件に就《つい》て先生に伺つて居た所なんだ」と言ひつゝ盃《さかづき》差し出《いだ》す、
 花吉は是非もなげに酌をしつ「ホンとに米ちやんは気の毒なことしましたよ、彼《あ》の晩もネ、香雪軒《かうせつけん》の御座敷で一所になりましてネ、世の中がツクヅク厭《いや》になつたなんて、さんざ愚痴を言ひ合つて別れたんですよ、スルと丸井さん、其の帰路《かへり》にヤラれたんですもの――けれど、男の方にも何か深い事情《わけ》があるんですツてネ」
「サ、其の男の方《はう》を此の篠田先生が能《よ》く御存《ごぞんじ》なので、色々御話を承つて居たのだがネ」
 丸井は火鉢の上に身を屈《かが》めつゝ「ぢや、先生、其の兼吉《かねきち》と云ふのほ、恋の協《かな》はぬ意趣晴らしツてわけでは無かつたんでげすナ」
「左様《さう》です、彼は決して嫉妬《しつと》などの為めに凶行に出でたのではありません、――必竟《ひつきやう》、自分の最愛の妻――仮令《たとひ》結婚はしないにせよ――を、姦淫の罪悪から救はねばならぬと云ふのが、彼の最終の決心であつたのです、彼の此の愛情は独り婦人に対してのみで無いのです、彼が平生、職業に対し、友人に対し、事業に対する観念が皆な其《そ》れでした、成程、其の小米と云ふ婦人も、今ま貴女の(と花吉を一瞥《いちべつ》しつ)仰《お》つしやる通り実に気の毒でした、然《し》かし彼女《かのをんな》が彼《あ》の如くして生きて居たからとて、一日と雖《いへど》も、一時間と雖も、幸福と云ふ感覚を有《も》つことは無かつたでせう、兼吉が執つた婦人に対する最後の手段は、無論正道をば外《はづ》れてたでせう、が、生まれて此《かく》の如き清浄な男児の心を得、又た其の高潔なる愛情の手に倒れたと云ふことは、女性《をんな》としての満足なる生涯《しやうがい》では無いでせうか」
「ナ、成程」
 花吉は黙つて篠田を凝視《ぎようし》せり、

     九の三

「多くの新聞には、兼吉が是れ迄も数々《しば/\》小米《こよね》と云ふ婦人に金の迷惑を掛け、今度の凶行も、婦人が兼吉の無心を拒絶したから起つたかの如く、書かれてありましたが、あれは丸井さん、兼吉の為めに気の毒の至極《しごく》です」と、篠田は其談を継続しぬ、
「兼吉と云ふ男は決して其様《そん》な性格の者ではありませぬ、石川島造船会社でも評判の職工で、酒は飲まず、遊蕩《いうたう》などしたことなく、老母には極《きは》めて孝行で、常に友達の為めに借金を背負《しよ》はされて居た程です、何《ど》うも日本では今以て、鍛冶工《かぢこう》など云へば直《ただち》に乱暴な、放蕩三昧《はうたうざんまい》な、品格の劣等の者の如く即断致しますが、今日《こんにち》の新職工は決してソンなものでは無いですからな、――今春《このはる》他の一人の職工が機械で左腕《うで》を斬り取られた時など、会社は例の如く殆《ほとん》ど少しも構はない、已《や》むを得ず職工同志、有りもせぬ銭《ぜに》を出し合つて病院へ入れたのですが、兼吉は、此儘《このまゝ》にしては、廿世紀の工業の耻辱であると云ふので、其の腕を携《たづさ》へて、社長の宅へ面談に参つたのです、風呂敷から血に染つた片腕を出された時には、社長も顔色を失つて、逃げ掛けたサウですが、其裾《そのすそ》を捉《とら》へて悲惨なる労働者の境遇を説き、資本家制度の残忍|暴戻《ばうれい》を涙を揮《ふる》つて論じたのには、サスがの柿沢君も一言《いちごん》の答弁が無《なか》つたと云ふことです、一言に尽したならば、兼吉の如きは新式江戸ツ子とでも言ひませうか」
「しますると、兼吉と小米との交情《なか》は如何《い
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