福音《ふくいん》は既に軍隊の内部に瀰漫《びまん》せんとしつゝあるを、平和主義の故を以て露国教会はトルストイを除名せり、然れ共今や学生の一揆、労働者の同盟罷工に向《むかつ》て進軍を肯《がへ》んぜざる士官あり、発砲を拒む兵士あり、我等は既に露西亜の曙光《しよくわう》を見たり、
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 渡部の声は激動せり、其面《そのかほ》は赤く輝けり、冷茶|一喫《いつきつ》、彼は其の温清なる眼《まなこ》を再び紙上に注ぐ、
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 露西亜《ロシヤ》には我等社会民主党の外に社会革命党あり、彼はバクニンの系統に属するものなり、我等は今日《こんにち》に於て未《いま》だ両者の融和を見る能《あた》はざるを悲むと雖《いへど》も、其の漸次《ぜんじ》接近親和すべきは疑を要せず、蓋《けだ》し今日に於て皇帝の生命を狙《ねら》ふが如きは、皇帝を了解せざるの甚《はなはだ》しきものなればなり、我等は露西亜皇帝に対して深厚なる一種の惰感を有す、※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]《そ》は尊敬に非ずして憐憫《れんびん》なり、世界の尤《もつと》も気の毒なるもの恐くは露西亜皇帝ならん、彼は囚人なり、只だ錦衣玉食《きんいぎよくしよく》するに過ぎず、
 露西亜が議会を有せんこと、余り遠き将来に非《あらざ》るべし、諸君を羨《うらや》むの間も、蓋《けだ》し暫時ならんか、
 狂犬をして血に吼《ほ》えしめよ、
 去れど我等は兄弟なり、
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 渡部は椅子に復せり、拍手は起れり、
「けれど普通選挙を得ざる我等と露西亜と、何の相違がある」と行徳はツブやきぬ、

     七の三

「最早《もう》、虚無党の御世話になる必要は無いよ、クルップの男色を発《あば》いてやれば、忽《たちま》ち頓死《とんし》するし、伊大利大蔵大臣の収賄《しうわい》を素破抜《すつぱぬ》いてやれば直《ただち》に自殺するしサ、爆裂弾よりも筆の方が余ツ程力があるよ、僕は彼奴等《きやつら》の案外道義心の豊かなのに近来ヒドく敬服して居るのだ」揶揄《やゆ》一番、全顔を口にして呵々大笑《かゝたいせう》するものは、虚無党首領クロパトキン自伝の愛読者|菱川硬次郎《ひしかはかうじらう》なり、其の頓才に満座|俄《にはか》に和楽の快感を催《もよ》ほせり、彼は炭を投じて煖炉の燃え立つ色を見やりつゝ「何の運動でも、婦人が這入《はひ》つて来る様になれば〆《し》めたものだ、虚無党でも社会党でも其の恐ろしいのは、中心に婦人が居るからだ、日本でもポツ/\其の機運が見えて来た」
「婦人と云へば、篠田君」と行徳は体《たい》を転じて「僕はネ、君が永阪教会を放逐されたと聞いて、ホツと安心したのだ」
 菱川は大きなる鼻に皺《しわ》よせて笑ひつ「無神無霊魂の仲間が一人殖えたと云ふわけか」
 一座|復《ふたゝ》び哄笑《こうせう》、
 行徳も、微笑を洩《も》らしつ「君等は直ぐ左様《さう》云ふからこまる――今迄篠田君の身辺《まはり》には一抹《いちまつ》の妖雲《えううん》が懸《かゝ》つて居たのだ、篠田君自身は無論知らなかつたであらうが――現に何時《いつ》であつたか、労働協会の松本君の如きも、篠田君は山木剛造の総領娘と結婚するさうぢやないか、怪《け》しからんことだと云ふから、君達は未《ま》だ其れ程までに篠田君が解からないのかと冷笑《ひやか》してやつたのだ」
 一座の視線、篠田の面上に注がれたり、
「ハア、左様《さう》いふことがあるんですかなア」と篠田は首を傾けぬ、
「なアに」と菱川は口を開きつ「婦人《をんな》なんてものは、極《ご》く思想の浅薄で、感情の脆弱《ぜいじやく》なものだからナ、少こし気概でもあつて、貧乏して居る独身者でも見ると、直《ぢ》きに同情を寄せるんだ、実にクダらんものだからナ」
「では、菱川君の如きは、差向き天下第一の色男と云ふ寸法のだネ」と行徳は槍を入れぬ、
「ハヽヽハヽヽヽ」と流石《さすが》の菱川も頭を掻《か》けり、
「然《し》かし、篠田君、山木の梅子と言ふのはナカ/\の関秀《けいしう》ださうだネ」と談話の新緒《しんちよ》を開きしは家庭新誌の主幹阪井俊雄なり「文章などナカ/\立派なものだ」
「左様《さやう》、余程意思の強い女性《ひと》らしいです――何でも亡母《おつかさん》が偉かつたと云ふことだから」と篠田は言ふ、
「では母の遺伝だナ、山木の様な奴には不思議だと思つたのだ」
「否《い》や、左様《さう》ばかりも言へないでせう、現に高等学校に居る剛一と云ふ長男《むすこ》の如きも、数々《しば/\》拙宅《うち》へ参りますが、実に有望の好青年です、父親《おや》の不義に慚愧《ざんき》する反撥力《はんぱつりよく》が非常に熾《さかん》で、自己の職分と父の贖罪《しよくざい》と二重の義務を負《お》んでるのだからと懺悔《ざんげ》して居る程です、思ふに我々の播《ま》ける種子《たね》を培《つちか》ふものは、彼等の手でせうよ」
「サウ、赤門《あかもん》にせよ、早稲田《わせだ》にせよ、一生懸命社会主義を拒絶して居るに拘《かゝは》らず、講堂の内面では却《かへつ》て盛に其の卵が孵化《ふくわ》されて居るんだから、実に多望なる我々の将来ぢやないか」と渡部は豊かなる頬に笑波《せうは》を湛《たゝ》へぬ、
「ヤ、君、最早《もう》一時だ」と阪井は時計を手にしながら「是《こ》れから淀橋《よどばし》まで歩るくのか」
「けれ共、君、幸《さいはひ》に雨は止んだ」
「オヽ、星が照らして居るわ、我々の前途を」   

     八の一

 築地《つきぢ》二丁目の待合「浪の家」の帳場には、女将《ぢよしやう》お才の大丸髷《おほまるまげ》、頭上に爛《きら》めく電燈目掛けて煙草《たばこ》一と吹き、長《とこしな》へに嘯《うそぶ》きつゝ「議会の解散、戦争の取沙汰《とりざた》、此の歳暮《くれ》をマア何《ど》うしろツて言ふんだねエ」
 折柄バタ/\走《は》せ来れる女中のお仲「松島さんがネ、花吉さんが遅いので、又たお株の大じれ込《こみ》デ、大洞《おほほら》さんがネ、女将《おかみ》さんに一寸来て何とかして貰ひたいツて仰《おつ》しやるんですよ」
 お才は美しき眉《まゆ》の根ピクリ顰《ひそ》めつ「チヨツ、松島の海軍だつて言はぬばかりの面《つら》して、ほんとに気障《きざ》な奴サ――其れに又た花ちやんも何《ど》うしたんだネ」
「いゝえネ、湖月の送別会とかへ行つてるので、未《ま》だ貰へないんですもの」
「しやうが無いネ、今夜あたり其様《そんな》所へ行かなくツても可《い》いぢやないか」
「オホヽヽヽだつて女将《おかみ》さん、其れも芸妓《げいしや》の稼業ですもの」
 お才も嫣然《にこり》歯を見せつ「だがネ、彼妓《あのこ》の剛情にも因つて仕舞《しま》ふのねエ、口の酸つぱくなる程言つて聞かせるに、松島さんの妾など真平《まつぴら》御免テ逃げツちまふんだもの」
「そりや女将さん、仮令《たとへ》芸妓だからつて可哀さうですよ、当時流行の花吉でせう、それに菊三郎と云ふ花形|俳優《やくしや》が有るんですもの、松島さん見たいな頓栗眼《どんぐりまなこ》の酒喰《さけぐらひ》は、私にしても厭《いや》でさアね」
「だツて、妾にならうが、奥様にならうが、俳優買《やくしやか》ひ位のことア勝手に出来るぢやないか」
「其《さ》う言やマア、さうですがね、しかし能《よ》くまア、軍人などで芸妓《げいしや》を落籍《ひか》せるの、妾にするのツて、お金があつたもンですねエ」
 お才は煙管《きせる》ポンと叩《たゝ》いて、フヽンと冷笑《わら》ひつ「皆ンな大洞さんの賄賂《わいろ》だアネ――あれでも、まア、大事なお客様だ、日本一の松島さんてなこと言つで、お煽《だて》てお置きよ、馬鹿馬鹿しい」

      *     *     *

 奥の二階の一室に対座せる二客、軍服の上へムク/\する如き糸織の大温袍《おほどてら》フハリ被《かぶ》りて、がぶり/\と麦酒《ビール》傾け居るは当時実権的海軍大臣と新聞に謡《うた》はるゝ松島大佐、対《むか》ひ合へる白髪頭《しらがあたま》の肥満漢《ふとつちよう》は東亜※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《きせん》会社の社長、五本の指に折らるゝ日本の紳商大洞利八、
 大洞は満面に笑の波を漲《みなぎ》らしつ「で、松島さん、私共《わたくしども》は此際ですから、決して特別の御取扱を御願致す次第では御《ご》わせん、只《た》だ郵船会社同様に願ひたいので――本来を申せば郵船会社の如き、平生《へいぜい》莫大の保護金を得て配当を多くして居ると云ふのも、一朝事ある時の為めでは御《ご》わせんか、然《しか》るに此の露西亜との戦争と云ふ時に及《およん》で、私共の船は一噸《いつトン》三円五十銭平均で御取上げ、郵船会社の方が却《かへつ》て四円|乃至《ないし》四円五十銭と申すのは、余りに公平を欠きまする様で――第一に国家の公益で無い様に思ひまするので」
「国家の公益? ハヽヽヽ其れは大洞、君等の言ふべき口上ぢや無からう、兎《と》に角《かく》一旦《いつたん》取り定《さだ》めたものを、サウ容易《たやす》く変更することもならんからナ」
「併《し》かし、松島さん、万事|貴下《あなた》の方寸に在《あ》ることでは御わせんか」
「仮令《たとひ》方寸に在らうが、国家の公事ぢや、君等は一家の私事さへもグツ/\して居るぢや無いか」
 大洞の聊《いささ》か解《げ》し兼ぬると言ひたげなる面《おもて》を松島はギロリ、一瞥《いちべつ》しつ「一体、君は山木の娘の一件を何《ど》うするんだ、山木に直接に言ふのは雑作《ざふさ》もないが、兎《と》に角《かく》妻にするものを、其れも余り軽蔑《けいべつ》した仕方と思つたからこそ、君を媒酌人《ばいしやくにん》と云ふことに頼んだのだ、最早《もう》彼此《かれこれ》、半歳《はんとし》にもなるぞ、同僚などから何時式を挙げると聞かれるので、其の都度《つど》、実に軍人の態面《たいめん》に泥を塗られる様に感ずるわイ、人を馬鹿にするも程があるぞ」
「イヤ、もう、其事に就《つ》きましては絶えず心配して居りますので、――何分当人が、少こし変物《かはりもの》と来て居りますので――」
「馬鹿言へ、高が一人の婦人《をんな》ぢやないか、其様《そんな》ことで親の権力が何処《どこ》に在《あ》る――それに大洞、吾輩は今日、実に怪《け》しからんことを耳に入れたぞ」満々たる大盃《だいコップ》取り上げて、グウーツとばかり傾けたり、

     八の二

「はア」と、訝《いぶ》かる大洞《おほほら》の面上|目懸《めが》けて松島は酒気吹きかけつ「君、山木は彼《あ》の同胞新聞とか云ふ木葉《こつぱ》新聞の篠田ツて奴に、娘を呉れて遣る内約があるンださうぢやないか、失敬ナ、篠田――彼奴《あいつ》、社会党ぢやないか、国賊と縁組みして此の海軍々人の面《かほ》に泥を塗る量見か、――此方《こつち》にも其覚悟があるんだ」
 大洞は始めて安心したるものの如く、両手に頭撫で廻はしつゝカンラ/\と大笑せり、
「何が可笑《をか》しいツ」盃《コップ》取りなほして松島は打ちも掛からんずる勢、
「戯謔《じやうだん》仰つしやツちや、因まりますゼ、松島さん、貴下《あなた》、其様《そんな》馬鹿気たこと、何処から聞いておいでになりました」
「今日も省内《やくしよ》の若漢《わかもの》等が、雑談中に切《しき》りと其事を言ひ囃《はや》して居つた」
「ハヽヽヽイヤ何《ど》うも驚きました、成程、さすが明智の松島大佐も、恋故なれば心も闇《やみ》と云ふ次第《わけ》で御《ご》わすかな、松島さん、シツカリ御頼《おたのみ》申しますよ、相手が兎《と》に角《かく》露西亜《ロシヤ》ですゼ、日清戦争とは少こし呼吸が違ひますゼ」
 大洞は小盃《ちよく》を松島に差しつ「私《わし》も篠田と云ふ奴を二三度見たことがありますが、顔色容体|全然《まるで》壮士ぢや御《お》ワせんか、仮令《たとひ》山木の娘が物数寄《ものずき》でも、彼様男《あんなもの》へ嫁《ゆか》うとは言ひませんよ、よし、娘が嫁うとした所で松島さん、山木も未《ま》だ社会党を婿《む
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