ま》の思ひ込みなされた御方が御ありなさるので御座りますか、貴嬢も十九《つづ》や廿歳《はたち》とは違ひ、亡奥様《せんのおくさま》は貴嬢の御年には、モウ、貴嬢を膝《ひざ》に抱いて在《い》らしつたので御座いますもの、何の御遠慮が御座いませう、是《こ》ればかりは御自分の御気に協《かな》うたのでなければ末始終《すゑしじゆう》の見込が立たぬので御座いますから、――奥様は何と仰《おつ》しやらうとも、旦那様は彼《あ》の様に貴嬢のことを深く御心配遊ばして在《い》らつしやるので、御座いますから、キツと婆から良い様に御取りなし致します、御嬢様、ツイかうと婆に御洩らし下さりませぬか」
梅子は依然|言《ことば》なし、
「御嬢様、其れは余りでは御座いませぬか、婆《ばあ》や婆やといたはつて下ださる平生《いつも》の貴嬢《あなたさま》の様にも無い――今日も奥様が例《いつも》の御小言で、貴嬢の御納得なさらぬのは私《わたし》が御側で悪智恵でも御着け申すかの御口振、――こんな口惜《くやし》いことは御座いません、此儘《このまゝ》死にましては草葉の蔭の奥様に御合せ申す顔が無いので御座います」
老婆は横向いて鼻打ちかみつ、
「婆や、ほんたうに申訳がないのネ、お前が其様《そのやう》に心配してお呉れだから、私《わたし》の心を打ち明けますがネ、私は決して人選びをして居るのぢやないのです、私は疾《と》うから生涯《しやうがい》、結婚しないと覚悟して居るのですからネ」
「いゝえ、お嬢様、其様《そん》なこと仰《おつ》しやつても、此婆は聴きませぬ、御容姿《ごきりやう》なら御才覚なら何に一つ不足なき貴嬢様《あなたさま》が、何の御不満で左様《さやう》なこと仰つしやいます、では一生、剛一様の御厄介におなり遊ばして、異腹《はらちがひ》の小姑《こじうと》で此世をお送り遊ばす御量見で在《いら》つしやいまするか」
「婆や、さうぢやありませぬ、私《わたし》は現在《いま》の様に何も働かずに遊んで居るのを何より心苦く思ふのでネ、――どうぞ貧乏町に住まつて、あの人達と同じ様に暮らして、生涯《しやうがい》其の御友達になりたいと祈つて居るのです」
「ヘエ――」と老婆は暫《し》ばし梅子の顔打ちまもりつ「それは、お嬢様、御本性《ごほんしやう》で仰つしやるので御座りますか」
「何で虚欺《うそいつはり》を言ひませう」と、梅子は首肯《うなづ》き「婆やの親切にホダされて、ツイ、心の秘密を明かしたのです――で、婆や、なんだか生意気らしいこと言ふ様だがネ、誰でも人は胸に燃え立つ火の塊《かたまり》を蔵《をさ》めて居るものです、火の口を明けて其を外へ噴《ふ》き出さぬ程心苦しいことはありませぬ、世の中の多くは其れを一人の男《かた》に献げて満足するのです、けれど、若《も》し其がならぬ揚合には、尤《もつと》も悩んでる多くの兄弟姉妹の上に分配《わけ》るのが一番道に協《かな》つた仕方かと思ふのでネ」
「ぢや、お嬢様も其れを一人の男《かた》にお上げなされば可《い》いぢや御座いませんか」
「さア――」と、梅子は行きなやみぬ、
「どうも、お嬢様、貴嬢《あなた》のお胸には何某殿《どなた》か御在《おあり》なさるに相違御座りません、――御嬢様、婆やの目が違《ち》がひましたか」
梅子は差しうつむきて復《ま》た無言、
「お嬢様、貴嬢は婆やを其れ程までにお隔てなさるので御座りますか、お情ないことで御座ります、あゝ、お情ないことで御座ります」
梅子は唇《くちびる》かみしめて、胸を押へつ、
「婆や――私《わたし》も――女性《をんな》だよ――」
固く閉ぢたる瞼《まぶた》を溢《あふ》れて、涙の玉、膝に乱れつ、霜夜《しもよ》の鐘、響きぬ、
七の一
数寄屋橋《すきやばし》門内の夜の冬、雨|蕭々《せう/\》として立ち並らぶ電燈の光さへ、ナカ/\に寂寞《せきばく》を添ふるに過ぎず、電車は燈華|燦爛《さんらん》として、時を定《さだ》めて出で行けど行人《かうじん》稀《まれ》なれば、発車の鈴《ベル》鳴らす車掌君の顔色さへ羞耻《おもはゆげ》に見ゆめり、
今しも闇《やみ》を衝《つ》いて轟々《がう/\》と還《か》へり来《きた》れるは、新宿よりか両国よりか、一見|空車《からくるま》かと思はるゝ中《うち》より、ヤガて降り来れる二個の黒影、合々傘に行き過ぐるを、此方《こなた》の土手側《どてぎは》に宵の程より客待ちしたりける二人の車夫、御座んなれとばかり、寒さに慄《ふる》ふ声振り立てて「旦那御都合まで」「乗つて遣《や》つて下だせイ」と追ひ掛け来《きた》る、二個の黒影――二重外套《ふたへぐわいたう》と吾妻《あづま》コウト――は石像の如くして銀座の方《かた》へ、立ち去れり、チヨツと舌打ちつゝ元の車台へ腰を下ろしたる車夫、「あゝ今夜もまたあぶれかな」「さうよ、先刻《さつき》打つたのが服部時計台《はつとり》の十一時の様だ」
「時に、オイ、熊の野郎め久しく顔を見せねエが、どうしたか知つてるかイ、何か甘《うめ》い商売でも見付けたかな」
「大違《おほちげ》エよ、此夏脚気踏み出して稼業《かげふ》は出来ねエ、嬶《かゝあ》は情夫《をとこ》と逃走《かけおち》する、腰の立《たゝ》ねエ父《おや》が、乳の無《ね》い子を抱いて泣いてると云ふ世話場よ、そこで養育院へ送られて、当時|頗《すこぶ》る安泰だと云ふことだ」
「ふウむ、其りや、野郎可哀さうな様だが却《かへつ》て幸福《しあはせ》だ、乃公《こちとら》の様にピチ/\してちや、養育院でも引き取つては呉れめヱ――、ま、愈々《いよ/\》となつたら監獄へでも参向する工夫をするのだ」
雨|一《ひ》としきり降り増しぬ、
「そりや、貴様《てめい》のやうな独身漢《ひとりもの》は牢屋へ行くなり、人夫になつて戦争に行くなり、勝手だがな、女房があり小児《こども》がありすると、さう自由にもならねエのだ」
「独身漢《ひとりもの》/\と言つて貰ふめエよ、是でもチヤンと片時離れず着いてやがつて、お前さん苦労でも、どうぞ東京《こつち》で車を挽《ひ》いててお呉《く》れ、其れ程人夫になりたくば、私《わたし》を殺して行かしやんせツて言やがるんだ、ハヽヽヽヽ、そりやサウと、オイ、昨夜《ゆうべ》烏森《からすもり》の玉翁亭《ぎよくをうてい》に車夫のことで、演説会があつたんだ、所が警部の野郎|多衆《おほぜい》巡査を連れて来やがつて、少し我達《おれたち》の利益《ため》になることを云《いふ》と、『中止ツ』て言やがるんだ、其れから後で、弁士の席へ押し掛《かけ》て、警視庁が車夫の停車場《きやくまち》に炭火を許す様に骨折て欲《ほし》いつて頼んでると、其処へ又警部が飛込んで来やがつて『解散を命ずるツ』てんよ、すると何でも早稲田《わせだ》の書生さんテことだが、目を剥《む》き出して怒つた、つかみ掛りサウな勢《いきほひ》だつたが、少し年取つた人が手を抑へて、斯様《こんな》警部など相手にしても仕方が無い、斯《か》うしなければ警察官も免職になるのだから、寧《いつ》そ気の毒ぢやないかツてんで、僅々《やう/\》収まつたが、――一体政府の奴等、吾達《おれたち》を何と思つて居やがるんだ」
「そんな大きな声して巡査にでも聞かれると悪イ、が、俺も二三日前に小山を通つてツクヅク思つた、軍艦《ふね》造《つく》るの、戦争《いくさ》するのツて、税は増す物は高くなる、食ふの食へねエので毎日苦んで居るんだが、桂《かつら》大臣の邸など見りや、裏の土手へ石垣を積むので、まるで御城の様な大普請《おほふしん》だ」
「今日も新聞で見りや、媽《かゝあ》の正月の頸《くび》の飾に五千円とか六千円とか掛けるのだとよ、ヘン、自分の媽の首せエ見てりや下民《しものもの》の首が回《ま》はらなくても可《い》いと言ふのか、ベラ棒め」
「何《いづ》れ一と騒動なくば収まるめエかなア」
銀座街頭の大時計、眠《ね》む気に響く、
「オ、もう十二時だ、長話しちまつた」
「でも未《ま》だ平民社の二階にや燈火《あかり》が見えるぜ――少こし小降になつた様だ、オヽ、寒い/\」
七の二
平民週報社の楼上を夜深《よふ》けて洩るゝ燈火《ともしび》は取り急ぐ編輯《へんしふ》の為めなるにや、否、燈火の見ゆるは編輯室にはあらで、編輯室に隣れる社会主義倶楽部の談話室なり、
燈下、卓上《テーブル》を囲むで椅子《いす》に掛かれる会員の六七名、
直に目に映《うつ》るは鬚髯《しゆぜん》蓬々《ぼう/\》たる筒袖の篠田長二なり「では、差当り御協議したいと思つたことは、是れで終結を告げました――少こし時間《とき》は後《おく》れましたが、他に御相談を要する件がありますならば――」
外国通信委員|渡部伊蘇夫《わたべいそを》は卓上に堆積せる書類の中より一片紙《いつぺんし》を取り上げつ「露西亜《ロシヤ》のペテルブスキイ君から今日《こんにち》、倶楽部宛の書面が来ました、順々に御覧下ださいませうか」
烟草《たばこ》燻《く》ゆらし居たる週報主筆|行徳秋香《かうとくあきか》「渡部さん、恐れ入りますが、お序《ついで》にお誦《よ》み下ださいませんか」「其れが可《い》い」「どうぞ」
「ぢや、読みませう」渡部は起てり、
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主義に於《おい》て常に相親交する、未《ま》だ見ぬ日本の兄弟諸君、
余は今ま露西亜《ロシヤ》に於ける同志に代りて之を諸君に書き送らんとするに際し、憤慨の情と感謝の念と交々《こもごも》胸間に往来して、幾度《いくたび》も筆を投じて黙想に沈みしことを、幸に諒察《りやうさつ》せよ、
今や日本の政府と露西亜の政府とは戦場に向《むかつ》て急ぎつつあり、露西亜国民の或者は日本を以て一個の狡狼《かうらう》と見做《みな》しつゝあり、思ふに日本国民の多数も亦《ま》た露西亜を以て暴熊視《ばういうし》しつゝあらん、諸君、アヽ、我等は何等の多幸多福ぞや、独り此間《このあひだ》に立ちて曾《かつ》て同胞の情感を傷害せらるゝことなきなり、啻《ただ》に是《こ》れのみならず、彼等の嫉妬《しつと》、憎悪《ぞうを》、奪掠《だつりやく》、殺傷の不義非道に煩悶《はんもん》苦悩するを観《み》て、愈々《いよ/\》現在立国の基本社会組織の根底に疑ふべからざるの誤謬《ごびう》あることを正確に証明せり、
欧米列国は日本に党《くみ》せん、去れど独逸《ドイツ》は露西亜《ロシヤ》の友邦なるべしとは、殆《ほとん》ど世界の各所に於て信ぜらるゝ所なり、然《しか》れ共《ども》諸君よ、我等は此際分析を要するに非《あら》ずや、敢《あへ》て問ふ、謂《い》ふ所の独逸《ドイツ》とは則《すなわ》ち何ぞや、彼等は軽忽《けいこつ》にも独逸皇帝を指して独逸と云ふものの如し、気の毒なる哉《かな》独逸皇帝よ、汝は今夏《こんか》の総選挙に於て全力を挙げて戦闘せり、曰《いは》く社会党は祖国に取つて不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵なり、一挙にして之れを全滅せざるべからずと、多謝す、アヽ独逸皇帝よ、汝の努力に依《よつ》て我独逸の社会党は、忽然《こつぜん》八十余名の大多数を議会に送ることを得たりしなり、独逸社会党の勝利は主義に繋《つな》がるゝ全|兄弟《けいてい》の勝利なり、独逸皇帝、彼は憐《あはれ》むべき一個の驕慢児《けふまんじ》なるのみ、
世の露西亜《ロシヤ》を言ふもの、亦《ま》た一に露西亜の皇帝を見、宮室を見、貴族を見、軍隊を見て足れりとなす、何等の不公平にして又た何等の浅学ぞや、露西亜には不幸にして未《いま》だ真正なる民意を発表すべき国民的機関なきが故《ゆゑ》に、之を公然証明すること能はずと雖《いへど》も、如何《いか》に自由独立の健全雄偉の思想と信仰とが、既に社会の裏面に普及しつつあるかは時々《じゝ》喧伝《けんでん》せらるゝ学生、農民、労働者の騒擾《さうぜう》に依りて、乞ふ其一端を観取せられよ、
陸軍大臣クロパトキンの名は日本国民の記憶する所ならん、然《しか》れ共《ども》彼に取《とつ》て目下の最大苦心問題は満洲占領に非ず、日本との戦争に非ずして、露西亜の軍隊に在り、彼等が砲剣に依《よつ》て外国侵略を計画しつゝある時、看《み》よ、社会主義の
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