ました凶事でも御聞き込みになりましたので――」
「ハイ」と、僅《わづか》に梅子は首肯《うなづ》きぬ、
大和は拳《こぶし》を固めぬ、
「如何《いか》なる件でありまするか、御遠慮なく仰《お》つしやつて下ださい」篠田は火箸《ひばし》もて灰かきならしつゝあり、
「篠田さん」と、梅子は涙|呑《の》み込みつ「是れは貴郎《あなた》の少しも御関係ないことです、けれど今の世の中は、貴郎を――拘引《こういん》する奸策を廻らして居るのです、冷かな手は黒き繩もて貴郎の背後《うしろ》に迫つて居りますよ――」
梅子は涙輝く眸《ひとみ》を揚《あ》げて、始めて篠田を凝視せり、
「やツ」と、思はず声を放つて、大和は膝を進めぬ、
「はゝア――イヤ左様《さう》したこともありませう」と篠田は聊《いさゝ》か怪しむ色さへに見えず、雨戸打つ雪の音又た劇《はげ》し、
堪《た》へずやありけん、大和は口を開きぬ「先生――御心当りがお有りなさるのですか」
「否《い》や、別に心当《こゝろあたり》も無いが、災厄《わざはひ》と云ふものは、皆な意外の所より来るのだから」
大和は復《ま》た沈黙せしが、やがて梅子の方《かた》に膝《ひざ》を向けぬ「山木|様《さん》、何時、先生を拘引すると申すのです」
「――明朝――」
「明朝――」とばかり大和は殆《ほとん》ど色を失ひしが「そして、何《いづ》れから御聴き込みになつたので御座います――甚《はなは》だ差出がましう御座いますが――」
梅子は悄然《せうぜん》頭《かうべ》を垂れぬ、
「――何《どう》ぞ、篠田さん、御赦《おゆるし》下ださいまし――警視庁から愚父《ちゝ》へ内密の報知がありましたのを、図《はか》らず耳にしたので御座います、お耻《はず》しいことで御座いますが、愚父《ちゝ》などからも内々警察へ依頼致したのに、相違無いので御座います――篠田さん、――私は貴所《あなた》の前に一切を懺悔《ざんげ》致さねばならぬことが御座いますので、御軽蔑《ごけいべつ》をも顧《かへり》みず罷《まか》り出でましたので御座いますが――」
畳に両手|支《つ》きたるまゝ、声は震《ふる》へて口籠《くちごも》りぬ、
大和は窃《そ》と立ちて室《しつ》を出でぬ、不安の胸に腕《うで》拱《こまね》きつゝ、
「梅子さん、快して御心配なさるには及びませぬ」と、篠田は微笑せり「我々の頭上に絶えず政府の警戒が厳酷なので、何時何事の破裂するか、予測することが出来ないのです、是《こ》れは日本ばかりではありませぬ、万国に散在する私共の同志者は、皆な同一の境遇に在《あ》るのです――ですから、貴嬢《あなた》に謝罪して頂くと云ふ様な必要は無いと思ひます」
良久《しばらく》して彼女《かれ》は思ひ切《きつ》て口を開《き》きぬ「――貴所《あなた》の御同志が政府の憎悪《にくみ》を受けて居なさいますことは、兼々承知致して居りまするが、貴所《あなた》の御一身にのみ、不意の御災難が降り懸かると云ふのは、其処《そこ》に特別の原因がありまするので――そして其の機会を生み出しましたのは――私の――心の弱いからで御座います」
「――何と、篠田さん、御詫《おわび》致して可《よ》いのか」と、はふり落つる涙を梅子は拭《ぬぐ》ひつ「心乱れて我ながら言葉も御座いません――只だ一言《ひとこと》懺悔させて下ださいませうか」
「喜《よろこん》で御聴《おきゝ》申すで御座いませう」
……………………………………………………………………
「何卒、篠田さん、御赦し下さいまし――貴所《あなた》の、御災難の原因《もと》はと申せば、――私が貴所を御慕ひ申したからで御座います――」梅子は畳に伏せり、歔欷《きよき》の音《ね》、時に微《かすか》に聞ゆ、
梅子は面《おもて》を擡《もた》げぬ「――定めて厚顔《あつがましき》ものと御蔑《おさげす》みも御座いませうが、篠田さん、――私如きものが、貴所《あなた》を御慕ひ申すと言ふことが、貴所の御高徳を毀《きずつ》けることになりまするのは能《よ》く存じて居りまするから、只《た》だ心の底の秘密として、曾《かつ》て一語半句も洩らした覚《おぼえ》のありませぬことは、神様が御承知下ださいます――其れを、結婚の申込を悉《ことごと》く謝絶致します所から、人を疑つて喜ぶ世間は種々《いろ/\》の風評を立てまして――貴所《あなた》の御名誉に関係致しまする様な記事を、数々《しば/\》新聞の上などでも読みまする毎に、何程自分で自分を叱り、陰ながら貴所に御詫《おわび》致したで御座いませう――けれど我が心に尋て見ますれば、他《ひと》の伝説を、全く虚妄《きよばう》とのみ言ひ消すことが出来ませぬので、必竟《ひつきやう》、貴所に此の最後の――縲絏《るゐせつ》の耻辱を御懸《おか》け申すのも、私の弱き心からで御座います」
梅子は袖《そで》を噛《か》み締めて声立てじと怺《こら》へぬ、
「何も仰《おつ》しやつて下ださいますな」と篠田は目を閉ぢつ「現社会の基礎に斧《をの》を置きつゝある私共が、其の反撃に逢《あ》ふのは、毫《すこし》も怪むに足らぬことで御座います」
「けれど、篠田さん、貴所《あなた》は今ま御自愛なさらねばならぬ御体で御座いませう」梅子の一語には満身の力《ちから》溢《あふ》れて聞こえぬ、
「自愛致すとは」と、篠田は訝《いぶか》る、
「此儘《このまゝ》篠田さん」と梅子は却《かへつ》て怪みつ「貴所《あなた》は入獄なさるので御座いますか」
「左様《さう》です、力を以て来るものには、只だ温順を以て応接する外無いでせう」
「けれど――従来《これまで》、愚父《ちゝ》などの話に依りますれば、貴所《あなた》のやうな方は、監獄内で不測の災禍にお罹《かゝ》りなさる恐があると申すでは御座いませんか、出過ぎたことでは御座いますが、暫《しばら》く日本を遠のきなさいましては――外国には随分他国に身を逃れると云ふ例《ためし》もあるやうで御座いますから」
「梅子さん、御厚誼《ごかうぎ》は謝する所を知りません、けれど私の一身には一人探偵が附けてあるのです、取分け既に拘引《こういん》と確定しましたからは、今|斯《か》くお話致し居りまする私の一言一句をさへ、戸の外に筆記して居るものがあるも知れないです、――若《も》し私|一己《いつこ》の野心から申すならば、今ま空《むな》しく牢獄に囚《とら》はれて、特に只今《たゞいま》御話の如き暴行は、随分各国の獄裡《ごくり》に実験せられた所ですから、私も決して喜んで行かうとは思ひませぬ、乍併《しかしながら》、私共同志者の純白の心事が、斯かることの為に、政府にも国民にも社会一般に説明せられまするならば、眇《べう》たる此一身に取《とつ》て此上《こよ》なき栄誉と思ひます、実は我々の同志者と言はれて居る間にさへ、尚《な》ほ心術を誤解して居るものが尠《すくな》くないので御座いますから――」
篠田は語り来つて、急に言葉を更《あらた》め「余り自身のことを語り過ぎましたが、其よりも貴嬢《あなた》の将来こそ問題でせう、実は先頃剛一君とも一寸御話致したことでありましたが」
梅子の面《かほ》は真紅《しんく》を染めぬ「有難う御座います、貴所《あなた》の温和の御精神をお聴致すに就《つ》け何と云ふ私の恐ろしい心で御座いませう、――私は篠田さん、ほんたうに懺悔《ざんげ》致しました、そして決心致したので御座います、私は兼ねて愚父《ちゝ》から多少の地所と財産とを譲り受けて居りまするので、所詮《しよせん》不義の結果の財産のですから、一には贖罪《しよくざい》の為め、此の身と併《あは》せて貧民教育に貢献したいと考へて居たので御座いますが、今度|愈々《いよ/\》着手致すことに決心しまして御座います、申す迄もなく、只だ貴所《あなた》の御指揮《ごさしづ》をと其れのみ心頼《こゝろたのみ》で御座いましたものを、――」
「ア、其れで安心致しました」と、篠田は晴々《はればれ》と微笑を洩せり「梅子さん、誠に良き御計画で御座います、若《も》し私が自由の身で在りませうならば、充分御協議致しまして聊《いさゝ》か理想を実行して見たいのでありますが――然《し》かし決して御心配なさいますな、社会主義倶楽部の諸君は、無論|満腔《まんかう》の尊敬と同情とを以て、貴嬢《あなた》の御事業を賛助致しませう」
篠田の面《かほ》は輝き来れり「梅子さん、教会の為の宗教は未練なくお棄てなさい、原因を治《をさ》めない慈善事業は偽善者に御一任なさい、富の集中、富の不平均、是《こ》れが単一なる物質的問題とは何事です、富資《とみ》が年々増殖して貧民が歳々増加する、是れ程重大なる不道徳の現象がありますか、御覧なさい、今日の生活の原則は一に掠奪《りやくだつ》です、個人は個人を掠奪して居る、国は国を掠奪して居る、刑法が言ふ所の窃盗《せつたう》、彼は児戯《じぎ》です、神の見給ふ窃盗とは則《すなは》ち、今日の社会が尤《もつと》も尊敬して居る法律と愛国心です、所有権の神聖、兵役の義務、足れ皆な窃盗掠奪の符調に過ぎないのです、而《し》かも是れが為めに尤も悩んで居るものは、梅子さん、実に女性《によしやう》でありますよ、社会主義とは何ですか、一言《いちごん》に掩《おほ》へば神の御心です、基督《キリスト》が道破し給へる神の御心です」
彼は机上の一冊を右手《めて》に捧げつ「何卒、梅子さん、呉々《くれ/″\》も是《これ》の御研究をお忘れないことを望みます、人生の奥義《あうぎ》は此の些《さゝや》かなる新約書の中に溢《あふ》れて、汲《く》めども尽くることは無いでありませう、――アヽ、梅子さん、何卒《どうぞ》我国に於《お》ける、社会主義の母《マザア》となつて下ださい、母《マザア》となつて下ださい、是れが篠田長二|畢生《ひつせい》の御願であります」
梅子は涙|堰《せ》きも敢《あ》へず、
隣房の時計、二ツ鳴りぬ、アヽ、
「最早《もう》、二時」と、梅子は頭《かしら》を垂れぬ、警吏の向ふべき日は、既に二時を経過せるなり、曙光《しよくわう》差し来《きた》るの時は、則《すなは》ち篠田が暗黒の底に投ぜらるべきの時なり、三年の煩悶《はんもん》を此の一夜《いちや》に打ち明かして、柔《やさ》しく嬉《うれ》しく勇ましき丈夫の心をも聴くことを得たる今は、又た何をか思ひ残さん、いざ、立ち帰りなんか、――帰りとも無し、
胸も張り裂けんばかりの新しき苦悩を集中して、梅子は凝乎《じつ》と篠田を仰ぎ見ぬ、
両個《ふたり》相見て言葉なし、
良久《しばら》くして、熱涙玉をなして梅子の頬を下りぬ、彼女《かれ》は唇を噛んで俯《うつむ》きぬ、
突如、温《あたゝか》き手は来つて梅子の右掌《めて》を緊《しか》と握れり、彼女《かれ》は総身の熱血、一時に沸騰《ふつとう》すると覚えて、恐ろしきまでに戦慄《せんりつ》せり、額を上ぐれば、篠田の両眼は日の如く輝きて直ぐ前に懸《かゝ》れり、
篠田は一倍の力を加へつ「梅子さん――此れは未《いま》だ曾《かつ》て一点の汚《けがれ》だも見ざる純潔の心です、今ま始めて貴嬢《あなた》の手に捧げます」
梅子は左手《ゆんで》を加へて篠田の右手《めて》を抱きつ、一語も無くて身を其上に投げぬ、
風も寝《い》ね雪も眠りて夜は只だ森々《しん/\》たり、
既にして梅子は涙の顔を擡《もた》げぬ「篠田さんお叱りを受けますかは存じませぬが、暫時《しばし》御身《おんみ》を潜めて下ださることはかなひませぬか、――別段御耻辱と申すことでも御座いませんでせう――犬に真珠をお投げなさらずとも――」
篠田は首打ち掉《ふ》りつ「如何《いか》なる場合に身を棄つべきかは、我等が浅慮の判別し得る所ではありませぬ」
「篠田さん、最早《もう》決して弱き心は持ちませぬ」と梅子も今は心|決《き》めつ「何時と云ふ限《かぎり》も御座いませぬから、是れでお別れ致します、只今の御一言を私の生命《いのち》に致しまして――で、御一身上、私が承つて置きまして宜しいことが御座いまするならば、何卒《どうぞ》仰しやつて下ださいませんか――」
篠田は暫《し》ばし首傾けつ「では、梅子さん、一人御紹介致しますから
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