酌子定規《しやくしぢやうぎ》に拘泥《こうでい》して、悪党退治が出来ると思ふか――フヽム」
 吾妻は暫《し》ばし川地の面《おもて》ながめ居りしが、忽如《たちまち》、蒼《あを》く化《な》りて声ひそめつ「――ぢや、又た肺病の黴菌《ばいきん》でも呑《の》まさうと云《いふ》んですか――」
 川地は黙つてスイと起ちつ「吾妻、居室《ゐま》へ来給へ、一盃《いつぱい》飲まう――骨折賃も遣らうサ」
 去《され》ど吾妻は悄然《せうぜん》として動きもやらず「――考へて見ると警察程、社会の安寧を壊《やぶ》るものは有りませんねエ、泥棒する奴も悪いだらうが、捉《とら》へる奴の方が尚《な》ほ悪党だ」
「社会の安寧?」と川地は苦笑しつ「何も、皆《みん》な飯の種《たね》サ」
 吾妻は低声独語しぬ「飯の種、――飯の種」

     二十八

 大洞《おおほら》別荘の椿事《ちんじ》以来、梅子は父剛造の為めに外出を厳禁せられて、殆《ほとん》ど書斎に監禁の様《さま》なり、継母の干渉《かんせふ》劇《はげ》しければ、老婆も今は心のまゝに出入すること能《あた》はず、妹《いもと》芳子が時々来りては、父母が梅子に対する悪感情を、傲《ほこ》りがに伝達しつ、又た姉の悲哀の容態をば尾鰭《をひれ》を付けて父母に披露す、芳子は流石《さすが》にお加女《かめ》夫人の愛児なり、梅子の苦悶《くもん》を見て自ら喜び、姉を讒訴《ざんそ》して、母を喜ばしむ、只《た》だ前《ぜん》よりも一層真心を籠《こ》めて彼女《かれ》を慰め、彼女を奨《はげ》まし、唯一の楯《たて》となりて彼女を保護するものは剛一なりける、
 剛一は千葉地方へ遠足に赴《おもむ》きて二三日、顔を見せざるなり、雨|蕭々《せう/\》として孤影|蓼々《れう/\》、梅子は燈下、思ひに悩んで夜の深《ふ》け行くをも知らざるなり、
「アヽ、剛さんは如何《どう》なすつたでせう、今夜《こよひ》はお帰りの日取なんだが、今頃までお帰りないのは、大方《おほかた》此の雨でお泊りのでせう、お一人なら雨や雪に頓着《とんちやく》なさる男《ひと》ぢやないけれど、お友達と御一所《ごいつしよ》では、左様《さう》もならないからネ」
 彼女《かれ》は机上の置時計を見て独語せり、
「ほんたうに剛さん、私や、貴郎《あなた》に感謝してますよ、貴郎の様な男らしい男を弟《おとゝ》と呼ばせ給ふ神様は、何と云ふ恩恵《めぐみ》深くて居らつしやるでせう、私の嬉《うれ》しく思ふのは、天では神様、そして地では、剛さん、貴郎《あなた》ばかりです――」
 彼女《かれ》は忽《たちま》ち眼を閉ぢて俯《うつむ》けり「――左様《さう》ぢや無い、私は慥《たしか》に身も心も献げた尊《たふと》き丈夫《かた》が在《あ》るのです、けれど篠田さん――貴方は少しも私の心、此の涙に浸《ひた》せる我心を少しも知つては下さいません――其れを御怨《おうら》み申しは致しません、けれど何と云ふ情ない世の中でせう、此の純潔な私の恋が――左様《さう》です、純潔です、必ず一点の汚涜《をどく》もありません――貴方の為めに禍《わざはひ》の種となるのです、――篠田さん、我が夫《つま》、何卒|御赦《おゆる》し下ださいまし、貴方の博大の御心には泣いて居るのです、私は既《も》う決心致しました、私は父から全く離れました、家庭からも全く離れました、教会からも離れました、私は天の神様をのみ父とし母として、地に散在する憐《あは》れなる兄弟と、大きな家庭を作ることに覚悟致しました、そして此世を神様の教会と致します、――篠田さん、貴郎《あなた》は私の此の決心を、叱つて下ださいませんでせうねエ――」
 彼女《かれ》は恍惚《くわうこつ》として夢の如く、心に浮ぶ篠田の面影《おもかげ》に縋《すが》りて接吻せり、
「姉さん」と黄色の声して芳子は走《は》せつゝ入り来れり、
 梅子は遽然《きよぜん》我に返へりつ、「あら、芳ちやん、喫驚《びつくり》しましたよ、何《どう》なすつて」
「姉さん、私、可《い》いこと聴いたワ」芳子は姉の面《かほ》打ち眺《なが》めて笑ふ、
 梅子は又た何か面白ろからぬ我が噂《うはさ》なるべしと思へば、取り合はん心もあらず、
 去れど芳子は一向|無頓着《むとんちやく》に、大勝利を報告する将軍の如くぞ勇める「姉さん、私、今ま可《い》いことを聴いてよ、篠田さんは到頭《たうとう》縛《しば》られて、牢屋へ行きなさるんですと」
 巨砲もて打たれたらん如き驚愕《きやうがく》を、梅子は熟《じつ》と制しつ「――左様《さう》ですか――誰にお聴きなすつて――」
「今ネ、何処《どこ》からか電話で、――何でも警視庁とか云つてでしたの――報《しら》して来たんです、阿父《おとつさん》が阿母《おつかさん》に話して在《い》らしつてよ、是れで漸《やうや》く松島さんへ、お詫《わび》が出来るつて、ほんとに左様《さう》だわねエ」
「ヘエ、そして芳《よつ》ちやん、既《も》う牢屋へ行らしつたのですか」
「否《いゝ》え、明日ですつて、」
「左様《さう》ですか――」
 梅子は強《しひ》て平然と装へり、去《さ》れど制すべからざるは其顔なり、看《み》よ、其の凄《すさまじ》き蒼白《さうはく》を、芳子は稍々《やゝ》予算狂へるが如く、訝《いぶ》かしげに姉の面《かほ》見つめて、居たりしが、芳子々々と、ケタヽましく呼ぶ母の声に、飛ぶが如くに黙つて走せ行けり、
 梅子は声を呑《の》んで瞠《だう》と伏せり、

     二十九の一

 宵の雨も何時《いつ》しか雪と降り替はれり、
 麻布本村町の篠田が玄関には、深《ふ》け行く寒き夜を、大和《おほわ》一郎の尚《な》ほ兀々《こつ/\》と勉学に余念なし、雪バラ/\と窓を打ちて、吹き入る風に身を慄《ふる》はしつ「オヽ、寒い、最早《もう》何時かナ、未だ十二時にはなるまい――」
 顧《かへりみ》る台所の方《かた》には、兼吉の老母が転輾《てん/\》反側《はんそく》の気はひ聞ゆ、彼女《かれ》も此の雪の夜の物思ひに、既に枕に就《つ》きたるも、容易《たやす》くは夢の得も結ばれぬなるべし、
 篠田が書斎の奥よりは、洋紙《かみ》を走《は》しるペンの音、深夜の寂寞《せきばく》を破りて漏《も》れ来ぬ、
 大和は襟《えり》掻き合はしつ「アヽ、先生は未《ま》だお寝《やす》みにならんのか、何か書いて居らつしやる様だ、――明日の社説かナ、否《い》や、日常《いつも》お寝《やすみ》の時間に仕事なさるのだから、他《ほか》に何か急用の書き物がおありなさるのであらう、手紙かナ、平民週報の寄書かナ、ア、左様《さう》だ、露西亜《ロシヤ》の社会民主党へ贈りなさる文章に相違無い――両国の侵略主義者が嫉妬《しつと》猜忌《さいき》して兵火に訴へようとする場合に、我々同意者は相応じて世界進歩の為めに、平和の福音《ふくいん》を鼓吹《こすゐ》せねばならぬと言うて居られたから――が、先生も実にお気の毒で堪らぬ――」
 大和は瞑目《めいもく》して大息《たいそく》せり、
「――教会を除名されなすつたなどは、別段先生の損失でもなく、寧《むし》ろ教会の愚劣と偽善を表白したに過ぎないのだが、驚いたのは鍛工《かぢこう》組合の挙動だ――先生が梅子さんと結婚なさる為めに、主義を抛棄《はうき》なさるとは、何と云ふ破廉耻《はれんち》な言ひ草だ、嫉妬深《しつとぶか》い松本の暴論も、老実な浦和の主張で未《ま》だ決議には至らぬさうだが、其れが彼《あ》の吾妻の奸策だとは何事だ、尤《もつと》も彼奴《あいつ》、嫌《いや》な奴サ、先生の前でほヒヨコ/\頭ばかり下げて諂諛《おべつか》ばかり並べて、――誰か何時《いつ》やら、政府の狗《いぬ》ぢや無いかと注意したつけが、何《どう》も先生は既に左様《さう》と知つて居られるらしかつたよ、彼時《あのとき》の御返事を見ると――彼程《あれほど》敏慧《びんけい》な頭脳を邪路から救ひ出して遣《や》るものが無ければ、啻《ただ》に一人の兄弟を失ふのみならず社会は何程|毀損《きそん》されるかも知れないと、――先生を殺すものは――必竟《ひつきやう》先生の愛心だ――アヽ」
 薬園阪《やくゑんざか》下り行く空腕車《からくるま》の音あはれに聞こゆ「ウム、車夫《くるまや》も嘸《さ》ぞ寒むからう、僕は家《うち》に居るのだけれど」大和は机の上に両手を組みつ、頭《かしら》を俯《ふ》して又た更に思案に沈む、
「本当に左様《さう》だ、先生を殺すものは先生の愛心だ、花ちやんを救ふ、すると直ぐ其れが先生に禍《わざはひ》するのだ、其れに梅子さん――何《どう》も不思議だ、何故《なぜ》社会は虚誕《きよたん》を伝へて喜ぶのだらう、が、烟《けむり》の立つ所必ず火ありとも云ふぞ、――然《し》かし僕が若し婦人ならば矢張り左様《さう》思ふかも知れない、僕が先生を斯《か》く思ふの情、是れが女性の心に宿れば恋となるのかナ――アヽ、何卒《どうか》先生に思ふ存分、腕を伸ばさして上げたいナ」
 風又た吹き加はりぬ、雪の音はげし、
 門戸に低く人の声す、
 大和は耳を聳《そばだ》てぬ、戸を叩《たゝ》く音なり、
 何人《なんぴと》の何等緊急事ならん、此の寒き雪の深夜に――大和は訝《いぶ》かりつゝ立つて戸を開きぬ、
 吹き巻く雪中、門燈を背にして、黒き影一個立てり、

     二十九の二

「何殿《どなた》です」と、大和《おほわ》が雪明《ゆきあかり》にすかして問ふを、門前の客は袖《そで》の雪払ひも敢《あ》へず、ヒラリとばかり飛び込めり、
 東《あづま》コートに御高祖頭巾《おこそづきん》、――アヽ是《こ》れ婦人なり、
 大和は眼を円《まる》くして怪しげに見つめぬ、
「大和さん」、婦人の声に、大和は愕然《がくぜん》として一歩|退《しりぞ》けり「ア、貴嬢《あなた》ですか」
「あの、御在宅でいらつしやいますか――是非御面会せねばならぬことが御座いますので」
 深夜の雪道に凍《こゞ》えてや、婦人の声の打ち震《ふる》ひて聞えぬ、
「暫《しばら》くお待ちを願ひます」と、大和は急ぎ篠田の書斎へと走せぬ、
「先生――」驚愕《きやうがく》と怪訝《けげん》とに心騒げる大和の声は甚《いた》くも調子狂ひたり、
 既に文書|認《したゝ》め了《おは》りし篠田は、今や聖書|繙《ひもと》きて、就寝前の祈祷《きたう》を捧げんとしつゝありしなり、
 彼は静かに顧みぬ「大和君、何です」
「――只今、あの、山木の梅子さんが御光来《おいで》になりました」
「ナニ、梅子さんが――」篠田も首傾けぬ「お一人でか」
「左様《さう》です、何か至急の御要件ださうで御座いまして、是非御面会をと云ふことです」
「ウム此の雪中を御光来《おいで》は尋常のことでは有るまい、――早速に」
 梅子は大和に導かれて篠田の室に入り来りぬ、肉やゝ落ちて色さへ甚《いた》く衰へて見ゆ、彼女《かれ》は言葉は無くて只《た》だ慇懃《いんぎん》に頭《かしら》を下げぬ、
「良久《しばらく》御目に掛りませぬでした」と、篠田も丁重《ていちよう》に礼を返へして、「此の吹雪《ふぶき》の深夜|御光来《おいで》下ださるとは甚《はなはだ》だ心懸《こゝろがかり》に存じます、早速承るで御座いませう」
 梅子は僅《わづか》に頭《かしら》を擡《もた》げぬ「――篠田さん――私、貴所《あなた》に御逢《おあ》ひ致しまする面目が無いので御座いますけれど――今晩容易ならぬことを、耳に致しましたものですから――」
 彼女《かれ》は逡巡《ためら》ひつゝ、窃《そつ》と傍《かたへ》の大和を見やりぬ、
 容易ならぬことの一語に、危殆《きたい》の念|愈々《いよ/\》高まれる大和は、躊躇《ちうちよ》する梅子の様子に、必定《ひつぢやう》何等の秘密あらんと覚りつ、篠田を一瞥《いちべつ》して起たんとす、
 篠田は制しぬ「何事か知りませぬが、梅子さん、少しも御懸念《ごけねん》に及びませぬ、是《こ》れは私の弟ですから」
 大和は又た座りてホと吐息を漏らしぬ、
「否《い》エ、篠田さん、大和さんに御遠慮申したのでは御座いませぬが」、梅子は言はんと欲して言ひ能《あた》はざるものの如し、
「何でありまするか」と篠田は問ひぬ「何か私の一身に関係し
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