」と、彼は大和を呼んで兼吉の老母を招きぬ、
 声を呑むで泣き居たる兼吉の老母は、涙の顔を揚げも得ずして打ち伏しぬ、
「梅子さん、此の老女を労《いたは》つて下ださい、是れは先頃|芸妓殺《げいぎころし》と唄《うた》はれた、兼吉と云ふ私の友達の実母です、――老母《おつかさん》、私は、或は明日から他行《たぎやう》するも知れないが、少しも心置なく此の令嬢《かた》に御信頼《おたより》なさい、兼吉君は無論無罪になるのであるから、少しも心配なく、其れに若《も》し両個《ふたり》が相許るすならば、花ちやんと結婚したらばと思つて居るのです、元より強ふることは出来ないですが」
 篠田は梅子を顧みつ「只今慈愛館に居りまするが、花と云ふ婦人が在《あ》るのです、元《も》と芸妓《げいしや》でありまするが、余程精神の強固なのですから、将来|貴嬢《あなた》の御事業の御手助となるも知れませぬ、」
 梅子は思はず赧然《たんぜん》として愧《は》ぢぬ、彼女《かれ》の良心は私語《さゝや》けり、汝《なんぢ》曾《かつ》て其の婦人の為めに心に嫉妬《しつと》てふ経験を嘗《な》めしに非ずやと、
 兼吉の老母は正体なき迄《まで》に咽《むせ》び泣きつ、
「其から梅子さん、私一身上の御依頼が御座いますが」と、篠田は悄然《せうぜん》として眼《まなこ》を閉ぢぬ、
「私に一人の伯母があるのです、世を厭《いと》うて秩父の山奥に孤独《ひとり》して居ります、今年既に七十を越して、尚《な》ほ钁鑠《くわくしやく》としては居りますが、一朝私の奇禍《きくわ》を伝へ聞ませうならば――」語断えて涙|滴々《てき/\》、
 梅子は耐《こら》へず膝《ひざ》に縋《すが》れり、「御安心下ださいまし――、何卒御安心下さいまし――」
 篠田は梅子の肩、両手《もろて》に抱きて「心弱きものと御笑ひ下ださいますな――アヽ今こそ此心晴れ渡りて、一点|憂愁《いうしう》の浮雲《ふうん》をも認めませぬ、――然らば梅子さん、是れでお訣別《わかれ》致します」
「――心は永久に同住《ひとつ》で御座います」
「勿論《もちろん》」

      *     *     *

 空は何時しか晴れぬ、陰暦の何日《いつか》なるらん半ば欠けたる月、槻《けやき》の巨木、花咲きたらん如き白き梢《こずゑ》に懸《かゝ》りて、顧《かへり》み勝ちに行く梅子の影を積れる雪の上に見せぬ、

     三十

 窓白く雪の夜は明けんとす、
 篠田は例《いつも》の如く早く起き出でて、一大|象牙盤《ざうげばん》とも見るべき後圃《こうほ》の雪、いと惜しげに下駄を印《いん》しつゝ逍遙《せうえう》す、日の光は尚《な》ほ遙《はる》か地平線下に憩《いこ》ひぬれど、夜の神が漉《こ》し成せる清新の空気は、静かに来り触れて、我が呼吸を促《うな》がす、目を放てば高輪三田の高台より芝山内《しばさんない》の森に至るまで、見ゆる限りは白妙《しらたへ》の帷帳《とばり》の下《もと》に、混然《こんぜん》として夢尚ほ円《まどか》なるものの如し、
 篠田の双眸《さうばう》は不図《ふと》、円山《まるやま》の高塔に注がれて離れざるなり、静穏なる哉《かな》、芝の杜《もり》よ、幽雅なる哉《かな》、円山の塔よ、去れど其の直下、得も寝で悲み、夜を徹して祈れるもの一人あり、美しき雪よ、彼女の目より涙を拭《ぬぐ》へ、清《すず》しき風よ、彼女の胸より愁《うれひ》を払へ――アヽ我が梅子、汝《なんぢ》の為めに祈りつゝある我が愛は、汝が心の鼓膜《こまく》に響かざる乎《か》、――父なる神、永遠《とこしなへ》に彼を顧み給へ、彼女に聖力《みちから》を注ぎて、爾《なんぢ》の聖旨《みむね》を地に成さしめ給へ、篠田は歩《ほ》を転じて表の方《かた》に出でぬ、
 雪を蹴つて来るものあり「先生――お早う御座います」言ひつゝ彼は、一葉の新聞を篠田の手に捧ぐ、
「オヽ、村井君ですか、御困難ですネ」と、篠田は新聞受け取りつゝ、「何か昨夜あつたと見えますネ、少し遅れた様ですが」
「ハ、夜中に長い電報が参りましたので、印刷が大層遅くなりました――先生、到頭《たうとう》戦争を為《す》るのでせうか――」
「サア、左様《さう》なりませうネ」
「何卒《どうぞ》、先生、主義の為めに御奮闘を願ひます」慇懃《いんぎん》に腰を屈《かが》めたる少年村井は、小脇の革嚢《かばん》緊《しか》と抱へて、又た新雪《あらゆき》踏んで駆け行けり、
 中学の校帽|凛々《りゝ》しく戴ける後姿見送りたる篠田は、やがて眸子《ひとみ》を昨日|己《おの》が造れる新紙の上に懐《なつ》かしげに転じて「労働者の位地と責任」と題せる論文に一《ひ》とわたり目を走らせつ、心は今しも村井が告げたる二面の夜中電報に急げり、
「日露外交の断絶」テフ一項の記事と相並《あひならん》で、篠田の眼を射りたるものは、「九州炭山坑夫同盟の破壊」と題せる二号活字の長文電報なり、篠田の心は先づ激動せり、
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……憲兵巡査の強迫は正面より来り、黄金の魔術は裏面より行はれたり……
首領株三十名今夕突然捕縛せられたり、憲兵巡査の乱暴|甚《はなはだ》しく、負傷者少からず其の多くは婦人小児なり……是れ買収政略の到底効果なきより来れるものと知らる……維持費尽く、
[#ここで字下げ終わり]
「首領の捕縛」「公権の乱暴」「婦女小児の負傷」而《しか》して噫《あゝ》、「維持費尽く」
 新聞|右手《めて》に握り締めたるまゝ、篠田は切歯《せつし》して天の一方を睨《にら》みぬ、
 白雪一塊、突如高き槻《けやき》の梢《こずゑ》より落下して、篠田の肩を健《したゝ》か打てり、
 午前七時半、警官来れり、
 今や篠田の身は只だ一片の拘引状と交換せられんとすなり、大和は其の胸に取り付きて、鏡の如き涙の眼に、我師の面《かほ》を仰ぎぬ、
 篠田は徐《おもむ》ろに其背を撫《ぶ》しつ、「君、忘れたのか――一粒の麦種地に落ちて死なずば、如何《いか》で多くの麦|生《お》ひ出でん――沙漠《さばく》の旅路にも、昼は雲の柱となり、夜は火の柱と現はれて、絶えず導き玉ふ大能の聖手《みて》がある、勇み進め、何を泣くのだ」
 轍《わだち》の迹《あと》のみ雪に残して、檻車《かんしや》は遂《つひ》に彼を封して去れり、
[#地から2字上げ](明治三十七年一月―三月)



底本:「筑摩現代文学大系 5 徳富蘆花・木下尚江・岩野泡鳴集」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月15日初版第1刷
   1981(昭和56)年11月15日初版第2刷
初出:「毎日新聞」
   1904(明治37)年1月1日〜3月20日
※初収単行本は「火の柱」明治37年5月(平民社)
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:松永正敏
2004年8月9日作成
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