》約束した上は、後家《ごけ》を立て通すが女性《をんな》の義務《つとめ》だと言はしやる、当分は其気で居たものの、まア、長二や、勿体《もつたい》ないが、父《おや》を怨《うら》んで泣いたものよ――お前は今年|幾歳《いくつ》だ、三十を一つも出たばかりでないか、お前がどんな偉い人になつたにしても、マサか仙人では有るまいわ、近い話が、何か身動きもならぬ程に忙しい中を、斯様《こんな》何の相談|対手《あひて》にもならぬ私《わし》を恋しがつて、急に思ひ立つて来ると云ふも、神様の嫁御《よめご》では、物足らぬからではあるまいか、エ、長二、お前が何程《いくら》物識《ものしり》でも、私《わし》の方が年を取つて居りますぞ」
篠田は腕《うで》拱《こまぬ》きて深思に沈みつ、
子を伴へる雌雄の猿猴《ましら》が、雪深き谷間鳴きつゝ過ぐる見ゆ、
二十五の一
篠田の寂しき台所の火鉢に凭《よ》りて、首打ち垂れたる兼吉《かねきち》の老母《はゝ》は、未《いま》だ罪も定まらで牢獄に呻吟《しんぎん》する我が愛児の上をや気遣《きづか》ふらん、折柄誰やらん訪《おとな》ふ声に、老母《はゝ》は狭き袖に涙|拭《ぬぐ》ひて立ち出でつ「オヽ、花ちやん――お珍らしい、能《よ》くお入来《いで》だネ、さア、お上りなさい、今もネ私一人で寂しくて困つて居たのですよ――別にお変りもなくて――」
「ハア、――老母《おつかさん》も――」と、嫣然《えんぜん》として上り来れるお花は、頭《かしら》も無雑作《むざふさ》の束髪《そくはつ》に、木綿《もめん》の衣《ころも》、キリヽ着なしたる所、殆《ほとん》ど新春野屋の花吉《はなきち》の影を止めず、「大和《おほわ》さんは学校――左様《さう》ですか、先生は不相変《あひかはらず》御忙しくて在《いら》つしやいませうねエ――今日はネ、阿母《おつかさん》、慈愛館からお聴《ゆるし》が出ましてネ、御年首に上つたんですよ、私、斯様《こんな》嬉しいお正月をするの、生れて始めてでせう、是《こ》れも皆な先生の御蔭様《おかげさま》なんですからねエ――其れに阿母《おつかさん》、兼さんから消息《おたより》がありましテ、私、始終《しじゆう》気になりましてネ」
老母の目は復《ま》た忽《たちま》ち涙に曇りつ「――予審とやらは此頃やうやく済んださうですがネ――」
「左様《さう》ですツてネ――其事は私も新聞で見ましたの、――六《むつ》ヶ|敷《しい》文句ばかり書いてあるので、能《よ》くは解りませぬでしたが、何でも兼さんに、小米《こよね》さんを殺すなんて悪心が有つたのでは無いと云ふやうに思へましたよ、矢つ張裁判官でも人ですから、少しは同情《おもひやり》があると見えますわねヱ、だから阿母《おつかさん》、余り心配なさらぬが可《よう》御座んすよ」
「難有《ありがた》うよ」と老母は瞼《まぶた》拭《ぬぐ》ひつ「此程《このほど》も伜のことを引受けて下だすつた、弁護士の方が来《いら》しつたんでネ、先生様の御友達の方で、――御両人《おふたり》で種々《いろ/\》御相談なすつて在《いら》しつたがネ、君是れ程筋が立つて居るのに、若《も》し兼吉を無罪にすることが出来ないならば、弁護士を廃《や》めて仕舞へと、先生様が仰《おつ》しやるぢやないか、すると其方《そのかた》もネ、可《よろ》しい約束しようと仰《おつ》しやるんだよ、花ちやん、私、嬉しくて/\……」
「本当にねエ、阿母《おつかさん》」と、お花はブル/\と身を震《ふる》はしつ「何と云ふ御親切な方でせう、――私、考へる毎《たび》に――」と、面《かほ》忽《たちま》ちサと紅《あか》らめ「彼《あ》の様にお忙しい中で、私共のことまであれも是れもとお世話下さるんですもの、何《どう》して阿母《おつかさん》、世間態や人前の表面《うはべ》で、出来るのぢやありませんわねエ――近頃は又戦争が始まるとか、忌《いや》な噂《うはさ》ばかり高い時節ですから、夜分お帰りも嘸《さ》ぞ遅くて在《いら》つしやいませうねエ」
「左様《さう》ですよ、おつちりお寝《おや》みなさる間も無くて在《いら》つしやるので、御気の毒様でネ、ト云つて御手助《おてすけ》する訳にもならずネ――其れに又た何か急に御用でもお出来なされたと見えて、昨日新聞社から直ぐに御郷里《おくに》へ行らしつたのでネ」
「あらツ」と、お花は驚き顔「ぢや先生は御不在《おるす》なんですね――まア――何時《いつ》御帰宅《おかへり》になるんですの」
「端書《はがき》で言うて御遣《おつかは》しになつたのだから、詳しいことは解りませんがネ、明日の晩までには、お帰宅《かへり》になりませうよ、大和さんが左様《さう》言うてらしたから、だから花ちやん、丁度|可《い》い所へ来てお呉れだわネ、寂《さび》しくて居た所なんだから」
「私、まア――ぢや、私、お目に掛ること出来ないんですか――」
「そんなに急ぐのかネ、花ちやん、たまのことだから、少しは遊んで行つても可《い》いでせう、外の処《とこ》ぢや無いもの」
黙つてお花は頭《かしら》を振り「明日の正午までには是非|帰館《かへ》らねばなりませんの」
ガラリ、格子戸《かうしど》鳴りて、大和は帰り来れり「やア、花ちやん、来《いら》つしやい、待つてたんだ、二三日、先生が御不在ので、寂しくて居た所なんだ」
「貴郎《あなた》までが、――そんナ――」とお花は泣きも出《い》でなんばかり、
二十五の二
晩餐を果てて、三人燈下に物語りつゝあり、「何だか、阿母《おつかさん》、先生が御不在と思《お》もや、其処《そこ》いらが寂しいのねエ」と、お花は、篠田の書斎の方《かた》顧《かへり》みつゝ、
「ほんとにねエ、在《いら》しつたからとて、是《こ》れと云ふ別段のことあるでも無いのだけれど」と、兼吉の老母も首肯《うなづ》きつ、
「本当に私、申訳ないと思ひますワ」と、お花は急に思ひ出したるらしく「先生が私を御世話なすつて下さるのを、世間では彼此《かれこれ》申すさうぢやありませんか、私ヤ、何《ど》うせ斯様《かう》した躯《からだ》なんですから、ちつとも関《かま》やしませぬけれど、其れぢや、先生に御気の毒ですものねエ」
「なアに、花ちやん」と、大和《おほわ》は番茶|呑《の》み干しつゝ、事も無げに笑ひて、「其様《そんな》ことは先生に取つて少しも珍らしく無いのだ、此頃は尚《ま》だ酷《ひど》い風評《うはさ》が立つてるんだ――山木の梅子さんて令嬢《かた》と、先生が結婚しなさるんだツて云ふんでネ、是れには先生も少こし迷惑して居なさる様なんだ、皆《みん》な先生を毀《きずつ》けようとする者の卑劣な策略なんだから、花ちやん、左様《さう》心配しなさるに及ばないよ」
「左様でせうか」
「けれど大和さん」と老母は顔差し出し「ツイ此頃も、其の山木のお嬢様とやらの弟御《おとゝご》さんが御来《おいで》になつたで御座んせう、チラと御聞きしただけですから能《よ》くは解りませんけれど、其の御姉《おあねえ》さんが何《どう》してもお嫁に行かないと仰しやるんで、トド、何か大変なことでも出来《しゆつたい》したと云ふ様な御話で御座んしたよ」
「ウム、彼《あ》の松島の一件か」と、大和は例の無頓着《むとんちやく》に言ひ捨てしが、忽《たちま》ち心着きてや両手に頭|抱《かゝ》へつ「やツ」と言ひつゝお花を見やる、
「何《どう》しなすツたの」と、お花も、松島と云ふ一語に顔|赫《あか》らめぬ、
「なアに、花ちやんの為にも矢張り敵なんだよ、彼《あ》の松島大佐がネ」と大和は茶受《ちやうけ》ムシヤ/\と噛《か》み込みつ「彼《あれ》が余程以前から、梅子さんを貰はうとしたんだ、梅子さんの実父《おやぢ》も、継母《まゝはゝ》の兄と云ふのも、皆《みん》な有名な御用商人なんだから、賄賂《わいろ》の代りに早速承諾したんだ、所が我が梅子嬢は何《どう》しても承知しないんだ、到頭《たうとう》梅子さんを誘《いざな》ひ出して、腕力で侮辱を与へようとしたもんだから、梅子さんも非常に怒つて、松島を片眼《めつかち》にしたんださうな、其れを宅《うち》の先生が何か関係でもあつて、左様《さう》させたやうに言ひ触らして、先生の事業を妨害する奴があるんだ、或は梅子さんが先生を恋して居なさるかも知れんサ、大分世間で其の評判だから、けれど先生は御存知無いんだ、恋愛は其|対手《あひて》が承諾を与へた場合に始めて成立する、所謂《いはゆる》双務契約なんだからなア」と、恋愛法理論を講釈したる彼は、グツと一椀、茶を傾けつ「何《ど》うも美人てものは厄介極まる、僕は大嫌《おほきら》ひだ、」
老母もお花も転がつて笑ひつ、
「それは、吃度《きつと》、其のお嬢様も左様《さう》で在《いら》つしやいませうよ」と、老母はやがて口を開《き》きて「先生様のやうに、口数がお少《す》くなくて、お情深くて、何から何まで物が解つて在《いら》しつて、其れでドツしりとして居なさるんですもの、其《そり》ヤ、女の身になれば誰でもねエ」
「まア、厭《いや》な阿母《おつかさん》」
「否《い》エ、本当ですよ」
お花はランプの光|眩《まぶ》し気《げ》に面《かほ》を背向《そむ》けつ「けれど、其のお嬢様など、お幸福《しあはせ》ですわねエ、其様《さう》した立派な方なら、仮令《たとひ》浮き名が立たうが、一寸《ちつと》も男の耻辱《はぢ》にもなりや仕ませんもの――」
大和は眼を円《まる》くして、襟《えり》に頤《あご》埋めて俯《うつむ》けるお花の容子《ようす》を、マジ/\と見つめぬ、
此夜お花は眠らぎりき、
二十六
「今日は又た曇つて来た、何卒《どうぞ》降雪《ふら》ねば可いが」と、空|眺《なが》めながら伯母は篠田を見送りの為め、其の後に付いて、雪の山路を辿《たど》り来りしが「其う云ふ次第《わけ》で、長二や、気を着けてお呉れよ、此世に只《た》だ伯母一人|姪《をひ》一人と云ふのぢや無いか、――亭主には婚礼もせずに逝《ゆ》かれる、お前の阿父《おとつさん》は彼《あ》の様な非業《ひごふ》な最後をする、天にも地にも頼るのはお前ばかりのだ――まあ、之を御覧よ」と、眼下に白き雪の山里|指《ゆびさ》しつ「お前の阿父《おつとさん》は此の秩父《ちゝぶ》の百姓を助けると云ふので鉄砲に撃《う》たれたのだが、お前の量見は其れよりも大きいので、如何《どんな》災難が湧《わ》いて来ようも知れないよ、――此様《こんな》年老《としと》つた上に、逆事《さかさまごと》など見せて呉れない様にの――」
篠田も何とやらん後髪引かるゝやう「伯母さん、何卒《どうぞ》心配せんで下ださい、重々御苦労を御掛け申して来た今日《こんにち》ですから――其《そ》れに私も既《もう》三十を越したんですから、後先《あとさき》見ずのことなど致しませんよ、父にも母にも為《す》ることの出来なかつた孝行を、貴女《あなた》御一人の上に尽くしたいのが、私の精神ですからネ」
伯母は涙|堰《せ》きも敢《あ》へず「――長二や、――私や、斯《かう》してお前と歩《あ》るいて居ながら、コツクリと死にたいやうだ――」
ハヽヽヽと篠田は元気|克《よ》く打ち笑ひつ「何を伯母さん、仰《おつ》しやる、今《い》ま若《も》し貴女に死なれでもして御覧なさい、私は殆《ほとん》ど此世の希望《のぞみ》を亡《なく》して仕舞ふ様なもんですよ、何卒ネ、お躯《からだ》を大切にして下ださい、其のうちに又時を都合して参りますからネ」
「忙しからうがの」と、伯母は小さき袂《たもと》に溢《あふ》るゝ涙押し拭《ぬぐ》ひつ「何卒《どうぞ》其うしてお呉れよ、年増《としま》しにお前が恋しくなるので、――其れに、復《ま》た言ふ様だが、私《わし》の一生の御願だでの、一日も早く嫁を貰ふことにしてお呉れよ、――女房《にようぼ》が無いで身締《みじまり》が何《どう》の角《かう》のなどと其様《そん》な心配は、長二や、お前のことだもの少しも有りはせぬが、お前にしてからが何程心淋しいか知れはせぬよ、女など何の役にも立たぬ様に見えるが、偉い他人でも其の真心には及びませんよ、――諄《くど》いと思ふだろが、お前の嫁の顔見ぬ間《うち》は、
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