わらひ》傾けつ、框《かまち》に腰打ち掛けて雪に冰《こほ》れる草鞋《わらぢ》の紐《ひも》解かんとす、
「お前が来ると知つて居りや、湯も沢山《たくさん》、沸《わ》かして置いたのに」と伯母が炉上の茶釜《ちやがま》をせゝるを、「なに、伯母さん、雪路だから、足も奇麗《きれい》ですよ」と、篠田は早くも上りて炉辺に座りぬ、
昔ながらの松明《まつのあかり》の覚束《おぼつか》なき光に見廻はせば、寡婦《やもめ》暮《ぐ》らしの何十年に屋根は漏り、壁は破れて、幼くて我《わが》引き取られたる頃に思ひ較《く》らぶれば、いたく頽廃《たいはい》の色をぞ示す、
「まア、長二、お前ほんとに吃驚《びつくり》させて、斯様《こんな》嬉しいことは無い」と、山の馳走《ちそう》は此れ一つのみなる榾《ほだ》堆《うづたか》きまで運び来れる伯母は、イソ/\として燃え上がる火影に凛然《りんぜん》たる姪《をひ》の面《かほ》ながめて「何時《いつ》も丈夫で結構だの、余り身体《からだ》使ひ過ぎて病気でも起りはせぬかと、私ヤ其ればかりが心配での」と言ひつゝ見遣《みや》る伯母の面《おもて》は、何時《いつ》もながら若々として、神々しきばかりの光沢《つや》漲《みなぎ》れど、流石《さすが》に頭髪《かしら》は去年《こぞ》の春よりも又た一ときは白くなり増《まさ》りたり、
榾《ほだ》の煙は「自然の香」なり、篠田の心は陶然《たうぜん》として酔へり、「私よりも、伯母さん、貴女《あなた》こそ斯様《こんな》深夜《おそく》まで夜業《よなべ》なさいましては、お体に障《さは》りますよ」
「なんの、長二」と伯母は白き頭振りつ「身体《からだ》は使ふだけ健康《ぢやうぶ》だがの、お前などのは、心気《こゝろ》を痛めるので、大毒だよ――今ではお前も健康の様だが、生れが何せ、脆弱《よわ》い質《たち》で、五歳《いつゝ》六歳《むつ》になるまでと云ふもの、全《まる》で薬と御祈祷《ごきたう》で育てられた躯《からだ》だ――江戸の住居も最早《もう》お止めよ、江戸は塵《ちり》と埃《ごみ》の中だと云ふぢや無いか、其様《そんな》中に居る人間に、何《どう》せ満足《ろく》なものの在《あ》る筈《はず》は無い、今ま直ぐと云ふわけにもなるまいが、何卒《どうぞ》伯母の健康《たつしや》な中に左様《さう》しなさい、山姥《やまうば》金時《きんとき》で、猿や熊と遊んで暮らさうわ、――其れは左様《さう》と、今度は少し裕然《ゆつくり》泊つて行けるだらうの――」
篠田は頭掻きつゝ、口ごもりぬ「――先日も手紙で申上げたやうな次第《わけ》で、当時差し懸《かゝ》つた用事がありますので、殆《ほとん》ど足を抜くことが出来ないのですが――何だか無闇《むやみ》に貴女が恋しくなつたもんですから、今日《こんにち》不意に出掛けて参つたやうな始末でしてネ――」
伯母は怪訝《けげん》な目して良久《しばし》篠田を見つめしが「――又た明日ゆつくり話しませう、疲れたらうに早くお寝《やす》み、例《いつも》の所にお前の床がある、――気候が寒いで、風邪《かぜ》でも引かれると大変だ」
「貴女《あなた》こそ早くお寝みなさい」と篠田は笑ひぬ、
「何の、私《わし》は寝たよりも醒《さ》めてる方が楽《たのしみ》だ――此の綿を紡《つむい》で仕舞《しま》はんぢや寝ないのが、私の規定《きめ》だ、是れもお前の袷《あはせ》を織る積《つもり》なので――さア、早くお寝《やす》み」
「左様《さう》ですか」と篠田は暗涙を呑《のん》で身を起しつ「誠に、恐縮に御座ります」と襖《ふすま》開きて、慣れたる奥の一室《ひとま》に入《い》れり、
伯母は膝に手を組んで頭《かしら》を垂れぬ「――何か只《たゞ》ならぬ心配があると見える――此の私を急に恋しくなつたと云ふのは――彼《あ》の剛情な男が――」
二十四の五
「長二や、大層|早起《はやい》の、何時起きたのか、ちつとも知らなかつたよ」と言ひつゝ伯母は内より障子開く、
縁端《えんはた》には篠田が悠然《いうぜん》と腰打ち掛けて、朝日の光《ひかり》輝く峯の白雲|眺《なが》めつゝあり、「そりや、伯母さん、私の方が早く寝ましたからネ――が、伯母さん、どうも実に閑静ですねエ、全く別天地です、此の節々が延々《のび/\》しますよ」
「だから、江戸の様なせゝこましい所で、無駄な苦労せずに、早く先祖代々の故郷へお帰りと云ふのだ――頼朝様《よりともさま》よりも前から住んで居るので、何殿《どなた》に頭を下げにやならぬと云ふ様な心配もなしさ」
「然《し》かし、伯母さん」と篠田は笑みつ「猿や狐の友達も可《い》いが、人間は矢張り人間の相手が無ければ、寂《さび》しくて堪《たま》りませんよ、私は又た伯母さんが、能《よ》く斯《かう》して孤独《ひとり》で居なさると不思議に思ふですよ、何《どう》です、一つ江戸住《えどずまひ》と改正なされたら」
「オヽ、飛んだことを、何の長二や、寂しいことがあるものか、多勢寄つて来るので、夜も寝るのが惜《をし》い程|賑《にぎや》かだ」
「ヘエ、何処《どこ》から其様《そんな》に人が参りますか」と篠田の訝《いぶ》かるを、伯母は事も無げに首肯《うなづ》きつ「私の知つとる程の人が、皆な寄つて来るよ、――お前の阿父《おとつさん》も来る、阿母《おつかさん》も来る、祖父《おぢいさん》も祖母《おばあさん》も来なさる、――其《そ》れに、長二、私の許嫁《いひなづけ》で亡くなつた、お前の義伯《をぢ》さんも来るの、其れに斯《か》うしてお前も偶《たま》には来て呉れる、斯様《こんな》嬉しいことがありますか」
ハヽヽと思はずも篠田は笑ひつ「ぢや、伯母さん私も仏様の御仲間入するんですネ」
「左様《さう》サ」と伯母は首肯《うなづ》き「神様か仏様か知らないが、矢ツ張り人間の様だよ、妙なもので、人は生きて居た時よりも、死んだ後の方が皆んな善くなるよ――生きてた時分には、怒り合つたこともあらうし、怨《うら》み合つたこともあらうが、一度死ぬと、悪い所は皆《みん》な墓場へ葬つて、善い所だけが霊魂《たましひ》に残るものと見える、其れに死んだ人は、羨《うらや》ましいことに、年と言ふものを取らないので、誰も彼も皆な若いよ、お前の阿父《おとつさん》でも阿母《おつかさん》でも皆な若いよ、――私の亭主も丁度《ちやうど》二十歳《はたち》で亡《なくな》つたが、其時の姿の儘《まゝ》で目に見える、私《わし》の頭が斯様《こんな》に白くなつたので、どうやら耻かしい様な気がして、最早《もう》何時にも鏡と云ふものを見たことが無いよ――」
ほツほツと片頬《かたほ》に寄する伯母の清らけき笑の波に、篠田は幽玄の気、胸に溢《あふ》れつ、振り返つて一室《ひとま》に煤《すゝ》げたる仏壇を見遣《みや》れば、金箔《きんぱく》剥《は》げたる黒き位牌《ゐはい》の林の如き前に、年|経《へ》て朧気《おぼろげ》なる一個の写真ぞ安置せらる、是《こ》れ此の伯母が、未《いま》だ合衾《がふきん》の式を拳ぐるに及ばずして亡《な》き数《かず》に入りたる人の影なり、
伯母もチヨと其方《そなた》を見やりつ「いつであつたか、彼《あ》の写真が判らぬ様になつたので、大きな油絵とやらに書き代へようと親切に、お前が言うて呉れたが、ナニ、決して其れには及びませぬよ、写真の顔などは見えなくなる程が可《い》いよ、――そりやお前、絵姿なんてものは、極《きま》り切つた顔して居るばかりだけれど、此の心に映る姿は、物も言へば、歩きもする、怒りもすれば笑ひもする、斯様《こんな》自由自在なものは有るまいよ」
「成程」と、篠田は瞑目《めいもく》して、伯母が言葉の端々《はし/\》深く味ひつ、
伯母はほツほと独《ひと》り笑ひつ「私ヤ、まア、勝手なことばかり言つて居たが、長二や、其れよりもお前の嫁《よめ》の決らないのが、誠に心懸《こころがか》りだよ、何《どう》だエ、未《ま》だ矢ツ張り心当りが無いか、――江戸あたりの埃《ほこり》の中には、お前の気に協《かな》つたものは有るまいが、ト云つて山の中にも無しの、ほんに困つて仕舞《しま》うたよ」と首傾けて屈托《くつたく》の態《さま》なりしが「ほう」と一つ己《おのれ》が膝《ひざ》叩《たゝ》きつ「どうだエ、長二、お前、亜米利加《アメリカ》とかで大層お世話になつた婦人《かた》があるぢや無いか、偉い女性《ひと》だとお前が言ふのだから、大した人に相違なかろが、一つ其|婦人《かた》を貰ふわけにやなるまいか、異人でも何でむ構やせぬよ、其れに御亭主の無い婦人《かた》だとお言ひぢやないか、エ、長二」
篠田は腹を拘へて噴飯《ふきだ》せり、
「イエ、本当の話だよ」と伯母は益々|真面目《まじめ》也、
「伯母さん、兼《かね》てお話した通り、偉い女性《ひと》に相違ありませぬがネ、――伯母さんより十歳《とを》も上のお姿さんですよ」
「何だエ」と伯母は眼を円《まる》くし「其様《そんな》豪《えら》い婦人《ひと》で、其様《そんな》歳《とし》になるまで、一度もお嫁にならんのかよ――異人てものは妙なことするものだの」
「別に不思議はありませんよ、現に伯母さんも左様《さう》ぢやありませんか」
「ナニ、私ヤ、是でもチヤンと心に亭主があるのだよ」
「其れならば、伯母さん、御安心下ださい、私もチヤンと花嫁がありますよ」
篠田は晃々《くわう/\》たる雪の山々見廻はして、歓然たり、
「オヽ、お嫁があるとエ」と伯母は驚くまでに打ち喜び
「して、其《そ》れは何時きめました、早く知らせて呉れゝば可《い》いに」
「なに、伯母さん、改めてお知らせする程のことも無いのです、最早《もう》疾《と》くの昔時《むかし》のことですから」
[ほツほ、何を長二、言ふだよ、斯様《こんな》老人《としより》をお前、弄《なぶ》るものぢや無いよ、其れよりも、まア、何様《どんな》婦人《ひと》だか、何故《なぜ》連れて来ては呉れないのだ」
「伯母さん、最早《もう》、貴女《あなた》にも御紹介《おひきあわせ》した筈ですよ」
「虚《うそ》言うて」と伯母は口開いてカラ/\と打ち笑ひ「私《わし》がお前のお媽《かみ》さんを忘れて可《い》いものかの」
「サ、伯母さん、私の花嫁と云ふのは、其の『おかみさん』のことですよ」
「其のお媽《かみ》さんの名は何と言ふのだの」
「おかみさんと云ふのです」
「長二や、お前、何を言ふだ」と、伯母は又も声高く笑ふ、
「伯母さん、本当の話です、神様が私の花嫁のです、――父とも母とも花嫁とも、有らゆる一切です」
「ヘエ」と、伯母は良久《しばし》言葉もなく、合点《がてん》行かぬ気に篠田の面《おもて》を目《ま》もれり「お前の神様のお話も度々《たび/\》聞いたが、私には何分《どうも》解らない、神様が嫁さんだなんて、全然《まるで》怪物《ばけもの》だの」
「怪物ぢや無い、人ですよ、人の大きいのです、必竟《つまり》、人が神様の小さいのと思や可《い》いですよ」
「左様《さう》云ふものかの」と伯母は思案の首傾けつ、
「現に伯母さん、貴女の所へ私の両親も来る、貴女《あなた》の旦那様も来ると仰《おつ》しやつたでせう――怪物でも、不思議でもありませんよ」
「だがの、長二や、其れは皆《みん》な私《わし》の知つて居る人達だが、お前の嫁の其の神様には、お前、お目に掛つたことがあるかの」
「左様《さう》ですねエ――思ひに悩む時、心の寂《さび》しい時、気の狂ほしい時、熟《じつ》と精神を凝《こ》らして祈念しますと、影の如く幻の如く、其の面《おもて》も見え、其声も聴こゆるですよ、伯母さんのと格別|違《ちがひ》ありますまい」
「其れは長二や、未《ま》だお前には早過ぎるやうだよ」と伯母は頭《かうべ》を振りぬ「私も結局|孤独《ひとり》の方が好いと、心から思ふやうになつたのは、十年|以来《このかた》くらゐなものだよ――今だから洗ひ渫《さら》ひ言うて仕舞ふが、二十代や三十代の、未《ま》だ血の気の生々《なま/\》した頃は、人に隠れて何程《どれほど》泣いたか知れないよ、お前の祖父《おぢいさん》が昔気質《むかしかたぎ》ので、仮令《たとひ》祝言《しうげん》の盃《さかづき》はしなくとも、一旦《いつたん
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