に知人が少ないですが、故郷の山、故郷の水、故郷の人、事に触れ時に従ひて、故郷程懐しきものはありません」
「伯母御様《をばごさま》は御達者で在《あら》つしやりまするか、永らく御目通りも致しませぬが――」
「ハイ、御蔭様で別状も無いやうですが――私も久しく無沙汰《ぶさた》致しましたから、一寸見舞にと思ひまして」
「成程《なるほど》」
「ヂヤ、与太、吉田屋の婆さんに能《よ》く言うて呉れよ、何《いづ》れ近日|返金《おけえし》するつてツたつてナ」と前車《まへ》の御者は喚《わめ》きつゝ、大宮行の馬車は国神宿《くにがみじゆく》に停車せり、
「どうせ、貴様《てめえ》から返金《かへ》して貰へるなんて思つちや居ねえツて言つたよ――其れよりかお竹の阿魔に、泣かずに待《まつ》てろツて伝言《ことづけ》頼むぞ、忘れると承知しねえぞ」と後車《あと》の御者は答へつゝ、篠田と老人とを乗せたる一|輌《りやう》は、驀地《まつしぐら》に孤《ひと》り奔《は》せぬ、
「旦那、此|界隈《かいわい》もヒドく寂《さび》れましたよ」と老人は欺息《かこ》ちつ、

     二十四の二

 雪の坂路を、馬車は右に左にガタリ/\と揺れつゝ上り行く、馬の吐息|冰《こほ》りて煙の如し、夜は既に十時に近からんとす、
「最早《もう》丁度《ちやうど》、十年――廿年になりますナ」と老人は首傾け「イヤ、どうも月月の経《た》つと云ふは早いもので、未《ま》だほんの昨日の様な気が致し居りまするが」長大息を漏らして彼は篠田の面《かほ》をシゲ/\見入りたり「土地のことも知らねえ、言葉さへ訳《わか》らねえ様な役人が来て、御維新《ごいしん》は己《おれ》が成《し》たと言はぬばかりに威張り散らす、税は年増しに殖える、働き盛を兵隊に取られる、一つでも可《い》いことは無《ね》えので、其処で長左衛門様の御先達《おさきだち》で朝廷へ直訴《ぢきそ》と云ふことになつたので御座りましたよ、其れを村の巡査が途方も無《ね》い嘘《うそ》ツぱちを吹聴《ふいちやう》して、騒動が始まるなんて言ひ振らしたので、気早の連中が大立腹《おほはらだち》で闇打《やみうち》を食はせる、憲兵が遣《や》つて来るワ、高崎から鎮台が押し寄せるワ、到頭《たうとう》長左衛門様は鉄砲に当つて、彼《あゝ》したことにお成りなされましたので――」
 老人は暫《し》ばし目を塞《ふさ》ぎて心に浮ぶ当時の光景を偲《しの》びつ「其れから皆《みん》なして遺骸《おからだ》を、御宅へ担《かつ》いで参《めえ》りましたが、――御大病の御新造様《ごしんぞさま》が態々《わざ/\》玄関まで御出掛けなされて、御丁寧な御挨拶《ごあいさつ》、すると旦那、貴郎《あなたさま》だ、其時|丁度《ちやうど》十二三の坊様が、長い刀を持ち出しなされて、父《とつ》ちやんの復讐《かたきうち》に行くと言ひなさる、其れを今の粟野《あはの》に御座る伯母御様が緊乎《しつかり》抱き留めておすかしなさる――イヤもう、皆な御庭に座つて泣きましたよ」
 老人は声曇らせて月影に面《おもて》を背向《そむ》けぬ、
「御老人」と篠田もソゾろ懐旧の感に打《うた》れやしけん、
 袂《たもと》より取り出せる襤褸《ぼろ》もて老人は鼻打ちかみ「其れから間もなく御新造様は御亡《おなく》なり、貴郎《あなたさま》は伯母御様に手を引かれなさつて、粟野の奥へ行かしやる、――何でも長左衛門様の讐討《かたきう》たんぢやならねエと言ふんで、伯母御様の所から逃げ出しなすつて、外国迄も行つて修業なすつて、偉《えら》い人《かた》にならしやつたと云ふことは薄々聞いて居《をり》ましたが、――どうも思ひ掛けねエ所で御目に掛りまして、昔時《むかし》のことがアリ/\と目に見えるやうで御座りやす」
「御老人、貴所《あなた》の様に、長い目で御覧になりましたならば、世の変遷《うつりかはり》が能《よ》く御見えになりませうが、偖《さ》て自分一身を顧みますと、実にお耻かしい次第でありましてナ、亡《な》き父などに対しても、誠に面目御座いません」
「いや/\、左様《さう》で無《ね》い、何でも偉《えれ》い人《かた》に成らしやつたと云ふ取《と》り沙汰《さた》で御座りまする」と、老人は首打ち振り「が、先且那様《せんだんなさま》も偉い方で御座りましたよ、二十年前に心配しなすつた通りに、今は成り果てて仕舞ひました、何だ角《か》だと取られる税《もの》は多くなる、積《と》れる作物《もの》に変りは無い、其れで山へも入ることがならねい、草も迂濶《うつかり》苅《か》ることがならねい、小児《こども》は学校へ遣《や》らにやならねい、借金《かり》が出来る、田地は段々に他《ひと》の物になる、旦那今ま此の山中《やま》で、自分の田を作つて居るものが幾人ありますかサ、――其上に厄介《やつかい》なものがありますよ、兵隊と云ふ恐ろしい厄介物が、聞けば又《ま》た戦争とか始まるさうで、私《わし》の村からも三四人急に召し上げられましたが、兵隊に取られるものに限つて、貧乏人で御座りますよ、成程|其筈《そのはず》で、年中働いて居るので身体《からだ》が丈夫、丈夫だから兵隊に取られる、――此頃も郡役所の小役人が帽子《シヤツポ》など被《かぶ》つて来まして、国の為めに死ぬんだで、有難いことだなんて言ひましたが、斯様《こんな》馬鹿な話がありますか、――近い例証《ためし》が十年前の支那の戦争で、村から取られた兵隊が一人死にましたが、ヤア村の誉《ほまれ》になるなんて、鎮守の杜《もり》に大きな石碑建てて、役人など多勢来て、大金使つて、大騒ぎして、お祭を行《や》りましたが、一人息子に死なれた年老《としと》つた両親《ふたおや》は、稼人《かせぎて》が無くなつたので、地主から、田地を取り上げられる、税を納めねいので、役場からは有りもせぬ家財を売り払はれる、抵当に入れた馬小屋見たよな家は、金主から逐《お》つ立てられる、到頭《たうとう》村で建てて呉れた自分の息子の石碑の横で、夫婦が首を縊《くゝ》つて終ひましたよ、爺《ぢい》と媼《ばゝあ》の情死《しんぢゆう》だなんて、皆《みん》な笑ひましたが、其時も私《わし》、長左衛門様の御話して、斯《かう》なることを見透《みとほ》して御座つたと言うて聴かせましたが、若い者等は、ヘイ其様《そんな》人があつたのかなと驚いて居ましたよ、最早《もう》村の奴せえ御恩を忘れて居ります様なわけで――」
 老人は鼻汁《はな》すゝり上げつ「どうせ私《わし》などは明日にも死ぬ身だから、関《かま》やせぬやうな物で御座りますが、子供等が可哀さうでなりませぬ、何卒、旦那――長二様、一つ長左衛門様の魂塊《たましひ》を御継《おつ》ぎなされて、此の百姓共を救つて下さりまし――」
 石にや乗り上げけん、馬車は顛覆《てんぷく》せんばかりに激動せり、
「畜生、何をフザけやがるツ」御者《ぎよしや》は続けさまに鞭《むち》を鳴らして打てり、
「オヽ、可哀さうだ、余り酷《ひど》くしなさるナ」と、老人は御者をなだめつ、
 馬車はやがて吉田に着きぬ、
「では、御老人、お別れ致します」篠田は老人の手をシカと握りて斯く言へり、
 権作爺《ごんさくおやぢ》は幾度《いくたび》も何か言はんと欲して遂《つひ》に言ふこと能《あた》はざりき、粟野の方《かた》へ雪踏み分けて坂路を辿《たど》る篠田の黒影見えずなる迄、月にすかして見送りぬ、涙に霞《かす》む老眼、硬き掌《たなそこ》に押し拭《ぬぐ》ひつつ、

     二十四の三

 権作老人と立ち別れて篠田は、降り積む雪をギイ/\と鞋下《あいか》に踏みつゝ、我が伯母の孤《ひと》り住む粟野《あはの》の谷へと急ぐ、氷の如き月は海の如き碧《あを》き空に浮びて、見渡す限り白銀《しろがね》を延べたるばかり、
 老夫の旧懐談に心動ける彼は、仰《あふい》で此の月明に対する時、伯母の慈愛に負《そむ》きて、粟野の山を逃れる十五歳の春の昔時《むかし》より、同じ道を辿《たど》り行く今の我に至るまで、十有六年の心裡《しんり》の経過、歴々浮び来つて無量の感慨|抑《おさ》ゆべくもあらず、只《た》だ燃え立つ復讐《ふくしう》の誠意、幼き胸にかき抱きて、雄々しくも失踪《しつそう》せる小さき影を、月よ、汝は如何《いか》に哀れと観じたりけん、焦《こ》がるゝ如き救世の野心に五尺の体躯《からだ》徒《いたづら》に煩悶《はんもん》して、鈍き手腕、其百万の一をも成すこと能《あた》はざる耻かしさを、月よ、汝《なんじ》は如何《いか》に甲斐《かひ》なしと照らすらん、森々《しん/\》として死せるが如き無人の深夜、彼はヒシと胸を抱きて雪に倒れつ、熱涙|混々《こん/\》、誰|憚《はばか》らず声を放つて泣きたりしが、忽《たちま》ちガパと跳《は》ね起きつ、足を踏みしめ、手を振つて、天地も動けと、呼ばはりぬ、

[#ここから2字下げ]
翠《みどり》の帳《とばり》、きらめく星  白妙《しらたへ》の牀《ゆか》、かがやく雪  宏《おほい》なる哉《かな》、美くしの自然  誰《た》が為め神は、備へましけむ、

峯の嵐は、眠りたり  谷の流は、夢のうち  隈《くま》なき月の冬の影  厳かにこそ、静なれ、

眼《まなこ》閉づれば速く近く、何処《いづこ》なるらん琴《こと》の音聴こゆ  頭《かしら》揚ぐれば氷の上に  冷えたる躯《からだ》、一ツ坐せり  両手《もろて》振《ふる》つて歌|唄《うた》へば  山彦《こだま》の末見ゆ、高きみそら、

感謝の声の天《あま》のぼり  琴の調《しらべ》に入らん時  歌にこもれる人の子が  地上の罪の響きなば  弾《ひ》く手とどめて天津乙女《あまつをとめ》  耻かしの 色や浮ぶらめ、

父の正義のしもとにぞ  涜《けが》れし心ひれ伏さむ  母の慈愛の涙にぞ  罪のゆるしを求め泣く  御神《みかみ》よ我を逐《お》ふ勿《なか》れ  神よ汝《な》が子を逐ふ勿れ 

神の心を摸型《かたとり》の  人てふ旨《むね》を忘れてき  神の御園《みその》の海山を  血しほ流して争へり、

万象眠る夜の床  人に逐《お》はれし人の子の  天地を恨《うら》む力さへ  涙と共に涸《か》れはてて  空《むなし》く急ぐ滅亡を  如何に見玉ふ我神よ、

天つ御国を地《つち》の上《へ》に  建てんと叫ぶ我が舌《した》に  燃ゆれど尽きぬ博愛の  永久の焔《ほのほ》恵みてよ、

熟睡《うまい》の窓に束《つか》の間《ま》の  罪逃がれにし人の子を  虚無の夢路にさゝやきて  聖《きよ》き記憶を呼びさませ、

星の帳《とばり》、雪の牀《ゆか》  くしく宏《おほい》なる準備《そなへ》かな  只《た》だ頽廃の人の心  悲しくも住むに堪へざるを、
[#ここで字下げ終わり]

 彼の面《おもて》は嬉々《きゝ》と輝きつ、髯《ひげ》の氷打ち払ひて、雪を蹴《け》つて小児《こども》の如く走《は》せぬ、伯母の家は彼《か》の山角の陰に在るなり、

     二十四の四

 樹《こ》の間《ま》より燈影《ほかげ》の漏るゝ見ゆ、伯母は未《ま》だ寝《い》ねずあるなり、
 細き橋を渡り、狭《せま》き崖《がけ》を攀《よ》ぢて篠田は伯母の軒端近く進めり、綿糸《いと》紡《つむ》ぐ車の音|微《かす》かに聞こゆ、彼女《かれ》は此の寒き深夜、老いの身の尚《な》ほ働きつゝあるなり、
「伯母さん」篠田ほホト/\戸を叩《たゝ》けり、
 車の音|止《や》みぬ、去《さ》れど何の答《いらへ》もなし、
 篠田は再び呼べり「伯母さん」
「誰だエ」と伯母は始めて答《いら》へぬ、
「伯母さん、私です」
「オ、――長二ぢやないか」倉皇《さうくわう》として起ち来《きた》る音して、歪《ゆが》みたる戸は、ガタピシと開きぬ、
「まア――」と驚きたる伯母は、雪に立ちたる月下の篠田を、嬉しげにツクヅクと見上げ見下ろせり「能《よ》く来てお呉れだ、先頃の手紙に、忙しくて当分行くことが出来さうも無いとあつたので、春暖かにでもならねばと思つて居たのに、――嘸《さ》ぞ寒むかつたらう、今年は珍らしい大雪での、さア、お入り、私ヤ又た狐でも呼ぶのかと思つたよ」
「狐と聞違へられでは大変ですネ」と篠田は莞然《くわんぜん》笑《
前へ 次へ
全30ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング