ありませぬ――併《し》かし其の為に貴嬢の御名をも汚がすが如き結果になりましては、何分我心の不安に堪へませぬので、――海軍々人は爾《しか》く婦人を侮辱するものと言はれては、是れ実に私一人の耻辱のみでは無いのでありますから、今晩は此の罪をも謹《つゝしん》で貴嬢の前に懺悔《ざんげ》し、赦《ゆる》したと云ふ一言の御言葉を得たいと思ふので御座いまする――」
 瞑目《めいもく》せる梅子の心中には、今日しも上野公園にて、図《はか》らずも邂逅《かいこう》せる篠田の面影《おもかげ》明々《あり/\》と見ゆるなり、再昨年《さいさくねん》の春の夜始めて聴きたる彼の説教は、朗々と響くなり、彼を思うて人知れず絞れる生命《いのち》の涙、身も魂《たま》も捧げて彼を愛すと誓へる神前の祈祷《いのり》、嬉しき心、辛《つら》き思《おもひ》、千万無量の感慨は胸臆三寸の間に溢《あふ》れて、父なる神の御声《みこえ》、天に在《い》ます亡母《はゝ》の幻あり/\と見えつ、聞えつ、何故《など》斯《か》かる汚穢《けがれ》の筵《むしろ》に座して、狼《おほかみ》の甘き誘惑《いざなひ》に耳を仮《か》すやと叱かり給ふ、
 松島は膝を正して手を拱《こまぬ》けり、「何卒我が過去の罪は梅子さん、お赦《ゆる》し下ださい」
 梅子は面《かほ》を揚《あ》げぬ「松島さん、貴所《あなた》は必ず女性《をんな》の貞節を重んじて下ださいませうネ」
 松島は訝《いぶか》しげに梅子を見ぬ「――、其れは勿論《もちろん》です――」
「松島さん、感謝致します――私には既に誓つた良人《をつと》があるので御座いますから――」
 梅子の頬は珊瑚《さんご》の如く紅《あか》く輝きぬ、

     二十一の五

「何ですツ」松島の血相は忽《たちま》ち変はれり「良人があると」
「ハイ」梅子も厳然として松島を睨《にら》み返へせり、
「フム其りや始めて承はる」と、松島は満面|軽蔑《けいべつ》の気を溢《あふ》らしつ「何時《いつ》結婚なされた」
「否《いえ》、結婚は致しませぬ」
「然《しか》らば、何時《いつ》約束なされた」
「約束も致しませぬ」
「然《さ》らば御尋ね致すが、御両親も承諾されたのか」
 梅子はホヽ笑みぬ「親の権力も子の意思に関渉することの出来ないのは、貴所《あなた》、只今御説明なされたでは御座いませぬか」
 グツト詰まりし松島は、ヤガて冷笑一番「ウム婦人の口から野合《やがふ》を自白するんだナ」
「何を仰《おつ》しやる――」
 梅子のキツとなるを、松島|笑《わらつ》て受け流《な》がし、
「左様《さう》だらう、未《ま》だ結婚もしない、公然約束もしない、父母の承諾を得たでもない、其れで良人があるとすれば、野合の外なからう」
「――貴所《あなた》は愛の自由と神聖とをお認めになりませぬか」
「神聖も糞もあるかい」
 梅子の柳眉《りうび》は逆立《さかだ》てり「軍人の思想は其程《それはど》に卑劣なものですか」
「何ツ」松島は猛獅《まうし》の如く躍《をど》り上りつ、梅子の胸を捉《とら》へて仰《あふむ》けに倒せり、「女と思つて赦《ゆる》して置けば増長しやがつて――貴様《きさま》の此の栄耀《ええう》を尽くすことの出来るのは誰のお蔭だ、貴様等を今日乞食にしようと、餓死《うゑじに》させようと、我が方寸にあることを知らないか――軍人の卑劣とは聞き棄てならぬ一言だ――貴様の大事な篠田の受売だらう、見とれ、篠田の奴も決しで安穏に許るしては置かぬぞ、貴様等の為めに帝国軍人の名誉を毀《きずつ》けてなるものか」
 力を極《きは》めて押し付くるを、梅子は絶えなんばかりの声振り絞《しぼ》りつ、「――人道の敵ツ」
 黒髪バラリと振り掛かれる、蒼《あを》き面《おもて》に血走る双眼、日の如く輝き、怒《いかり》に震《ふる》ふ朱唇《くちびる》白くなるまで噛《か》み〆《し》めたる梅子の、心|決《きは》めて見上たる美しさ、只《たゞ》凄《すご》きばかり、
 炎々たる情火に松島は、気狂ひ、心|悶《もだ》えて眼さへに眩《くら》くなれり、
「――復讐《ふくしう》――」
 今や心狂ひたる軍人の鉄腕に擁《よう》せられたる、繊細なる梅子の身は、鷹爪《ようさう》に捉《と》らはれたる雛雀《すうじやく》とも言はんか、仮令《たとひ》声を限りに叫べばとて何処《いづこ》より、援助来らん、一点の汚塵《をぢん》だも留めたるなき一輪の白梅、あはれ半夜の狂風に空《むな》しく泥土《でいど》に委《ゐ》すらんか、
 押へられたる儘《まゝ》、梅子は瞬《またゝ》きもせで睨《にら》み詰めたり、
 松島は梅子を引き起しつゝ、其の繊弱《かよわ》き双腕《りやうわん》をばあはれ背後《うしろ》に捉《とら》へんずる刹那《せつな》、梅子の手は電火《いなづま》の如く閃《ひらめ》けり、
「キヤツ」と一声、松島の大なる躯《からだ》はドウと倒れぬ、

      *     *     *

 襖《ふすま》を隔《へだ》てて窺《うかが》ひ居たるお熊は、尋常《ただ》ならぬ物音に走《は》せ出でぬ、
 看《み》よ、松島はヒシと左眼を押へて悶絶《もんぜつ》す、手を漏れて流血|淋漓《りんり》たり、
 梅子はスツクと立ち上れり、其の右手には汚血《をけつ》を握りつ、
「来て下ださい」
 絶叫したるまゝ、お熊は倒れぬ、
 何事やらんと駆《か》け上がりたる大洞《おほほら》も、お加女《かめ》も、流るゝ血潮に驚きて、只《た》だ梅子の面《かほ》を見つめしのみ、
 梅子は始めて唇を開きぬ「警察へ引き渡して頂きませう――私は血を流した罪人です」
 死力を籠《こ》めたる細き拇指《おやゆび》に、左眼|抉《ゑぐ》られたる松島は、痛《いたみ》に堪へ得ぬ面《かほ》、僅《わづか》に擡《もた》げつ「――秘密――秘密に――名誉に関はる――早く医者を、内密に――」
「名誉ツ?」梅子は突つ立てるまゝ、松島を睨《にら》めり、「名誉とは何事です、誰の名誉に関はるのです、殺人と掠奪《りやくだつ》を稼業《かげふ》にする汝等《なんぢら》に、何で人間の名誉がありませうか、――女性《によせい》全体の権利と安寧との為めに、必ず之を公にして、社会の制裁力を試験せねばなりません」
 梅子の視線はお加女の面上に転ぜり「継母《はゝうへ》、貴女は嘸《さ》ぞ御不満足で御座いませう、貴女の女《こ》は、世にも恐ろしき流血の重罪を犯《をか》しました、けれど継母《はゝうへ》、貴女のお望の破操の大悪よりは、軽う御座いますよ――」
 彼女《かれ》の眼光は電光の如く大洞の顔を射れり「処女の神聖を涜《け》がさん為めに準備せられた此の建物が、野獣の汚血《をけつ》に塗《まみ》れたのは、定めて浅念なことでせう――傷《きずつ》けるものの為めには医師を御招きなさい、けれど、犯罪者の為めに、何故《なぜ》早く警官をお呼びなさらぬ」
 大洞は、色を失つて戦慄《せんりつ》するお加女の耳に近《ちかづ》きつ、「少《す》こし気を静めさして今夜の中に密《そつ》と帰へすが可《よ》からう――世間に洩れては大変だ」

      *     *     *

 ヒユウ/\と枝を鳴らせる寒風も、今は収まりて、電燈の光|寂《さび》しき芝山内《しばさんない》の真夜中を山木剛造の玄関には、何処《いづく》にか行かんとすらん、一子剛一の今《い》ま自転車に点火せんとしつゝあり、
 側《かたへ》には一人、彼《か》の老婆の身を縮めて「剛様、今夜は又た一《ひ》ときは寒う御座んすから何卒《どうぞ》、御気を着け遊ばしてネ――貴郎《あなた》が行つて下ださるので、如何程《どんなに》安心で御座いませう」
「婆《ばあ》や、一飛びだ――何せよ、場所が場所だからナ、僕ア心配で堪まらぬのだ、大洞の伯父だの伯母だのツて、婆や、人間の面《つら》してる畜生なんだ、姉さんの身上《みのうへ》に万一のことでもあつて御覧、何《ど》の顔して人に逢はれるか」
 早や彼は車を運びて、門の方へ進み行く、
 此時|忽《たちま》ち轣轆《れきろく》たる車声、万籟《ばんらい》死せる深夜の寂寞《せきばく》を驚かして、山木の門前に停《とど》まれり、剛一は足をとどめてキツとなれり、
 小門、外より押されて数名の黒影は庭内に顕《あら》はれぬ、先《さ》きなるは母のお加女なり、中に擁《よう》されたるは姉の梅子なり、他は大洞よりの附《つ》け人《びと》にやあらん、
「姉さんですか」剛一は自転車を投じて走《は》せ寄れり、梅子はヒシと抱《いだ》き着きぬ「剛さん――」
 彼女《かれ》は弟の温き胸に頭《かうべ》をよせて、呼吸も絶えなんばかり、
 剛一は緊《しか》と抱きて声励ましつ「凛乎《しつかり》なさい――」
 老婆は只だ涙なり、「――お嬢さま――」

     二十二

 寝床《ねだい》の上に起き直りたる梅子の枕頭《ちんとう》には、校服のまゝなる剛一の慰顔《なぐさめがほ》なる、
「ナニ、姉さん、左様《さう》気をいら立てずと、最少《もすこ》し休んで在《い》らつしやる方が可《い》いですよ」
「けれどネ、剛さん、彼様《あんな》猛悪な心が、此の胸に潜んで居るのかと思ふと、自分ながら恐ろしくて堪《たま》りませんもの、――私は剛さん、奇魔《きれい》に死ぬことと覚悟して居たんです、彼様《あんな》乱暴しようとは、夢にも思やしませんよ、如何《どう》した突嗟《とつさ》の心の変化か、考へて見ても解らないの、矢ツ張り私の心が、怨《うらみ》と怒《いかり》に満たされて居たので、其れで彼《あゝ》した卑怯な挙動《ふるまひ》に出たのですねエ――今朝からネ、一人で聖書を読んだり、お祈《いのり》したりして居たんですよ、私もう――怖《こは》くて怖くて神様の御前《おんまへ》へ出られないんですもの――」
 梅子は身を顫《ふる》はして面《かほ》を掩《おほ》へり、
 剛一も目を閉ぢて暫《し》ばし言葉なかりしが、「――姉さん、篠田さんも其ことを心配してでしたよ」
「エ」と梅子は頭《かしら》を擡《もた》げつ「貴郎《あなた》、篠田さんにお逢ひになつて――」其顔は赧《あか》くなれり、
「ハア、折角《せつかく》の日曜も姉さんの行《いら》つしやらぬ教会で、長谷川の寝言など聞くのは馬鹿らしいから、今朝篠田|様《さん》を訪問したのです、――非常に憤慨《ふんがい》してでしたよ」
「私の挙動《きよどう》をでせう」
「左様《さう》ぢやないです」と剛一は頭《あたま》を掉《ふ》りつ「仮令《たとひ》世界を挙げても、処女《をとめ》の貞操と交換することの出来ない真理が解らぬかツて、憤慨して居られました、何でも彼《あ》の翌日と云ふものは、警察の手を以て彼《あ》のことの新聞へ出ない様に、百方奔走をしたんださうです、日本軍隊の威信と名誉に関《かゝ》はるからと云ふんでネ――実に怪《け》しからんぢやありませんか、今の社会が言ふ所の威信とか名誉とか言ふのは何を指すのです、僕は此の根本を誤つてる威信論や名誉論を破壊し尽さぬ間は、到底《たうてい》道義人情の精粋を発揮することは出来ぬと思ふです」
「アヽ、剛さん、――世間からは毒婦と恐れられ、神様からは悪魔と賤《いや》しめられて忌《いや》な生涯《しやうがい》を終らねばならんでせうか――私、此の右手を切つて棄《す》てたい様だワ――」
「姉さん」と剛一は膝を進めぬ「篠田さんの心配して居なさつたのは其処《そこ》なんです、貴嬢《あなた》の一生の危機は、先夜の危難の際では無く、虎口を脱れなすつた今日《こんにち》に在《あ》ると仰《おつ》しやるんです、――姉さん、貴嬢は今ま始めて凡《すべ》ての束縛《そくばく》から逃れて、全く自由を得なすつたのです、親の権力からも、世間の毀誉褒貶《きよはうへん》からも、又た神の慈愛からさへも自由になられたのである、今は貴嬢《あなた》が真正《ほんたう》に貴嬢の一心を以て、永遠の進退を定めなさるべき時機である、――愛の子か、詛《のろひ》の子か――けれど君の姉さんが此際、撰択《せんたく》の道を過《あやま》つ如き、弱く愚《おろか》なる人で無いことは確《たしか》に信ずると篠田さんは言うてでしたよ、――姉さん篠田さんは貴嬢を斯《か》くまで篤《あつ》く信じて居なさいますよ」
 梅子は枕
前へ 次へ
全30ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング