ものである」
松本は絶叫せり、拍手喝采《はくしゆかつさい》の響は百雷落下と凝はれぬ、
今は議長も思ひ決《きは》めて起ち立がれり「議長に於きましては、此の重大問題を即決致しますることは、少こしく軽率《けいそつ》の様にも考へます、依《よつ》て五名の調査委員を挙げて、一応調査することに致し度存じます、御異議が無くば――」
松本が周章《あわて》て起たんとする時賛成々々の声四隅に湧出《わきだ》して議長の意見を嘉納し了《おほ》せり、
「あゝ、大事去れり」と行徳は涙を揮《ふる》つて長大息《ちやうたいそく》せり、
菱川は髪|逆立《さかだ》てて怒号せり「我が労働者|未《いま》だ自覚せず」
* * *
階下の一室に兀座《こつざ》せる篠田は、俄《にわか》に起る階上の拍手に沈思の眼《まなこ》を開きぬ、
隙《すき》洩《も》る雪風に燈火明滅、
十九
正午には尚《な》ほ間《ま》のあり、
同胞新聞の楼上なる、編輯室《へんしふしつ》の暖炉《ストウブ》の辺《ほとり》には、四五の記者の立ちて新聞を猟《あ》さるあり、椅子に凭《よ》りて手帳を翻《ひるが》へすあり、今日の勤務の打ち合はせやすらん、
足音あわただしく駆け込み来れる一人「諸君、――実に大変なことが出来《しゆつたい》した」
其声は打ち顫《ふる》へて、其|面《かほ》は色を失へり、彼は吾妻俊郎なり、
「何だ、君、そんな泥靴のまゝで」と、立ちて新開を見居たる一人は眉を顰《ひそ》めぬ「電車でも脱線したと云ふのか」
「馬鹿言つてちや困まる、我社の危急存亡に関する一大事なのだ、我々は全然《まるで》、篠田の泥靴に蹂躙《じうりん》されたのだ――」吾妻の両眼は血走りて見えぬ、
「ナニ、篠田|様《さん》が如何《どう》なされたと云ふんだ」と、居合せる面々、異口同音に吾妻を顧みたり、
吾妻は目を閉ぢ、歯を噛締《くひしめ》て、得堪へぬ悲憤を強ひて抑《おさ》へつ「諸君、僕は実に諸君に対する面目が無いです、――従来《これまで》僕は篠田先生に阿媚《あび》するとか、諂諛《てんゆ》するとかツて、諸君の冷嘲熱罵を被つたですが、僕は只《た》だ先生を敬慕する余りに、左様な非難をも受くることになつたのです、然るに諸君、僕は全く欺《あざむ》かれて居ました――」吾妻はハンケチもて眼を蔽《おほ》ひつ「僕が諸君の罵詈《ばり》攻撃をさへ甘んじて敬愛尊信した彼は――諸君、――売節漢であつた、疑《うたがひ》もなき間諜《かんてふ》であつた」
「間諜《かんてふ》ツ」と一人は吾妻を睨《にら》めり、
「馬鹿ツ」と他の一人ほ冷然微笑せり、
一同の吾妻の言に取り合はざるに、彼は悄然《せうぜん》として落涙せり「アヽ、諸君、――僕の言を借用なさらぬは、必竟《ひつきやう》僕が平素の不徳に依るですから、已《や》むを得ないです、が、先生を間諜《かんでふ》と認めたのは、僕の観察では無い、先生とは最も密接の関係ある鍛工《かぢこう》組合が調査の結果、昨夜の臨時総会に於《おい》て満場異存なかつた決議です――」
「ナニ、鍛工組合が決議した――吾妻、又た虚言《うそ》吐《つ》いちや承知せぬぞ」
「騒いぢや可《い》かん、――彼《あ》の松本が例の猜忌《さいき》と嫉妬の狂言なんだらう、馬鹿メ」
吾妻は目を挙げて「左様《さう》です、若《も》し松本等の主張ならば、僕も驚きは致しませぬ、然《しか》るに彼《あ》の温良なる、寧《むし》ろ温柔の嫌《きらひ》ある浦和武平が、涙を揮《ふる》つて之を宣言したのです、余程正確なる証拠を握つて居るらしいです、昨夜は兎《と》に角《かく》、調査委員を選《えらん》で公然之を審判すると云ふことにして散会したさうですが――聞く所に依れば、先生も咋夜は真ツ青になつて、一言の弁解も無つたさうです、僕は斯《か》かる不祥を聴かねばならぬことを、我が耳の為めに悲むです――」彼は面《かほ》を掩《おほ》うて歔欷《きよき》したり、
一同|瞑目《めいもく》せり、拱手《きようしゆ》せり、沈思せり、疑団の雲霧は漸《やうや》く彼等の心胸《しんきよう》に往来し初《そ》めけるなり、
階子《はしご》に足音聞こゆ、疑ふべくもあらぬ篠田の其れなり、彼は今ま此の疑雲猜霧《ぎうんさいむ》の裡《うち》に一歩一歩静に足を進めつゝあるなり、
皆な眸《ひとみ》を扉に集めぬ、
扉は開かれぬ、
篠田は入り来りぬ、
一同期せずして一歩遠ざかりつ、唇を結べるまゝ冷《ひや》やかに目礼せり、
* * *
翌朝の都下新聞紙には左の如き同一の記事を掲げられぬ、何人が通信したりけん、
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●社会党と露犬 同胞新聞主筆篠田長二が、外に清貧を仮装しつゝ、内実|奢侈放逸《しやしはういつ》に耽《ふけ》れることは其筋に於《おい》て注意する所なりしが、鍛工組合に放ても内々調査したりし結果、一昨夜を以て臨時総会を開き、彼に露探の嫌疑《けんぎ》充分なりとの故を以て審判委員五名を選定せり
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「机の塵」「隣の噂」など云へる戯文欄に於て揶揄《やゆ》、冷評を加へしも少からず「基督教徒《キリストけうと》の非国家的思想」テフ大標題を掲げて、基督教は売国教なる所以《ゆゑん》を痛論せる仏教主義の新聞もあり、
二十
山木剛造の玄関には二輌の腕車《わんしや》、其の轅《ながえ》を揃《そろ》へて、主人《あるじ》を待ちつゝあり、
化粧室なる大玻璃鏡《すがたみ》の前には、今しも梅子の衣紋《えもん》正して立ち出でんとするを、其の後姿仰ぎてありし老婆の声|湿《うる》ませつ「では、お嬢様、何《どう》でも行《いら》つしやるので御座いますか――斯様《こんな》こと申したらば、老人《としより》の愚痴《ぐち》とお笑ひ遊ばすかも知れませぬが、何となく今日《こんにち》に限つて胸騒ぎが致しましてネ――」
梅子は玻璃鏡《かがみ》に映れる老婆の影をながめて微笑しつ「婆や、私だつて、今日此頃外へ出るなど少しも好みはしませんがネ、折角《せつかく》母様がお誘ひ下ださるのだから、御伴《おとも》するんです――けれど、婆や、別に心配なこと無いぢやないかネ」
「いゝえ、お嬢様、上野浅草へ行《いら》しやるのを、心配とも何とも思ひは致しませんが――帰途《かへり》に大洞《おほほら》様の橋場の御別荘へ、お寄りなさると仰《おつ》しやるぢや御座いませんか」
「左様《さう》よ」
「サ、それが、お嬢様、何となく心懸《こゝろがか》りなので御座います」
「何故《なぜ》――婆や」
老婆は垂頭《うなだれ》て語《ことば》なし、良久《しばらく》ありて「近頃、奥様の御容子《ごようす》が、何分《どうも》不審なので御座いますよ、先日旦那様が御帰京《おかへり》になりました晩、伊藤侯が図《はか》らずも媒酌人《ばいしやくにん》に為《な》つて下ださるからとのお話で、大勲位の御媒酌なんて有難いことは無いと、奥様も大層な御歓喜《およろこび》で在《いら》しつたで御座いませう、其れをお嬢様、貴嬢がキツパリ御断《おことわり》になつたもんですから……御両所《おふたり》の彼《あ》の御立腹は如何《いかが》で御座いました、旦那様は随分|他人《ひと》には酷《ひど》くお衝《あた》りになりましても、貴嬢《あなたさま》ばかりには一目《いちもく》置いて居《いら》したのが、彼《あ》の晩の御剣幕たら何事で御座います、父子《おやこ》の縁も今夜限だと大きな声をなすつて、今にも貴嬢《あなた》を打擲《ちやうちやく》なさるかと、お側に居る私さへ身が慄《ふる》ひました――それに奥様の悪態を御覧遊ばせ、恩知らずの、人非人《にんぴにん》の、何《なん》の角《か》のと、兎《と》ても口にされる訳のものでは御座いませぬ、私でさへ彼《あ》の唇《くち》を引ツ裂いてあげたい程に思ひましたもの、貴嬢《あなたさま》能く御辛抱なされました――其れがマア、不審では御座いませぬか、一週間|経《た》つや経たずに、貴嬢をお連れなすつての宮寺《みやでら》詣《まゐ》り――貴嬢をお伴《つ》れ遊ばして奥様の御遊山《ごゆさん》は、私初めてお見受け申すので御座いますよ、是れはお嬢様、上野浅草は託《かこつけ》で、大洞様の御別荘が目的《めあて》に相違御座いません、今夜の橋場が、私、誠に心懸りで――何《どう》やら永い訣別《おわかれ》にでもなる様な気が致しまして――」
梅子はジツと瞑目《めいもく》してありしが「婆や、其れ程迄に思つてお呉れのお前の親切は、私、嬉しいとも恭《かたじけ》ないとも言葉には尽くされないの、けれど私、何も今日|死《しに》に行くと云ふぢやなし」
聊《いさゝ》か躊躇《ちうちよ》せる梅子は、思ひ返へしてホヽと打ち笑み「そりや、婆《ばあ》や、お前が日常《いつも》言ふ通り、老少不常なんだから、何時《いつ》如何《どんな》ことが起るまいとも知れないが、然《し》かし左様《さう》心配した日には、家《うち》の中にも居られなからうぢやないかネ、――多分遅くならうと思ふから婆や、何卒《どうぞ》先きに寝てお呉れよ、寒いからネ」
老婆は歔欷《きよき》して言語《ことば》なし、
開きかゝりてありし襖《ふすま》の間《あひ》より下女の丸き赭面《あからがほ》現はれて「お嬢様、奥様が玄関で御待ち兼ねで御座んす」
「オ、左様《さう》でせうネ」と急ぎ行かんとする梅子の袂に、老婆は縋《すが》りつ、「――お嬢様、――お慎深《つゝしみぶか》い貴嬢《あなたさま》へ、申すもクドいやうで御座いますが――何卒お気を着けなすつて下さいまし――御待ち申して居りますよ――」
仰ぎたる老婆の面《かほ》は、滲々《さん/\》たる涙の雨に濡《ぬ》れぬ、
軽く首肯《うなづ》きたる梅子も、絹巾《ハンケチ》に眼を掩《おほ》ひぬ、
* * *
二輌の腕車《わんしや》は勇ましく走《は》せ去れり、
二十一の一
上野なる東照宮の境内を遠近《をちこち》話しながら歩を移す山木のお加女《かめ》と梅子、
「ネ、梅子、左様《さう》でせう、だから余ツ程考へなけりやなりませんよ、何時《いつ》までも花の盛《さかり》で居るわけにはならないからネ、お前さんなども、何《いづれ》かと言へば、最早《もう》見頃を過ぎた齢《とし》ですよ、まア、縹緻《きりやう》が可《い》いから一ツや二ツ隠《か》くしても居れようがネ――私にしてからが、只《た》だお前さんの行末を思へばこそ、斯《かう》してウルさく勧めるんだアね、悪く取られて、たまつたもんぢやありませんよ」
「阿母《おつか》さん、勿体《もつたい》ない、悪く取るなんてことあるものですか」
「けれど言ふことを聴いてお呉れでなきや、悪るく取つておいでとしか思はれませんよ」
樹間隠《このまがく》れに見ゆる若き夫婦の盛装せるが、睦《むつ》ましげに語らひ行く影を、ツクヅクとお加女は見送りながら「梅子、あれを御覧なさい、まアほんとに可愛らしい、雛人形《ひなにんぎやう》の様だよ――私も早くお前さんの彼《あゝ》した容子《ようす》を見たいと、其ればつかりが、親の楽《たのしみ》だアね、大きな娘を何時《いつ》までも一人で置いては、世間体も悪るし、第一草葉の蔭のお前の実母《おつか》さんに対して、私が顔向けなりませんよ――まア御覧なネ、あの手を引き合つて、嬉《うれ》しさうに笑つて、――男でも女でも彼《あれ》が一生の極楽世界と云ふもんですよ――羨ましいとは思ひませんかネ」
ジロリと、お加女は横目に見やれり、
梅子は他方を眺《なが》めつゝあり、
「あゝ、恐ろしいお嬢様だこと――」、お加女は目に角立てて独言《ひとりごと》しぬ、
二人は無言のまゝ長き舗石《しきいし》を、大鳥居の方に出で来れり、去れど其処には二輌の腕車《くるま》を置き棄てたるまゝ、何処《いづく》行きけん、車夫の影だも見えず、
「何《どう》したつてんだねエ――日がモウ入りかけてるのに、仕様《しやう》があつたもんぢやない、チヨツ」と、お加女は打ち腹立てて、的《まと》もなく当り散らしつゝあり、
通りかゝれる職人体《しよくに
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