的として居る売節漢、否《い》な最初からの間諜《かんてふ》であると知つた以上は、断然我が主義の為めに之を斬らねばならぬと決心したです、故に僕は今夜|敢《あへ》て両君に密告して、鍛工組合の名を以て此の売節奴《ばいせつど》を制裁せらるゝことを希望するです」
 明朗なる音声もて滔々《たう/\》述べ来れる吾妻は、悲憤の涙を絞りつゝ「両君――篠田が山木剛造の娘に恋着して、其の二万円の持参金に眩惑《げんわく》して、資本党の門に降参したことは、最早や一点の疑《うたがひ》もない――彼は今度の労働者大会を内部から打《う》ち壊《こは》して、其れを結納《ゆひなふ》として結婚式を挙げるのだ――彼は我々労働者に取つて獅子身中の虫であるツ――」
「僕は吾妻君を信ずる、僕は初めから彼を疑つて居たのだ、今夜もヅウ/\しく来て居るのだ、――可也《よし》」
 と言ひ棄てて起《た》ち上らんとする松本を、暫《しば》しとばかり浦和は制しつ「失礼の様ですが私には未《ま》だ理解が出来ません」

     十八の二

「僕が篠田の誣告《ぶこく》でもすると云ふんですか」と、吾妻は憤然《ふんぜん》として浦和に詰め寄る、
「否《い》や、誣告《ぶこく》など申すのぢやありませんがネ」と浦和はしとやかに「随分誤解と云ふこともあるものですから――篠田|様《さん》が主義を売つて山木の娘と結婚なさるなどとは何分にも想像が着きませんよ、第一、篠田様は山木の為に教会の方を除名されなすつた程ですからナ」
「サ、其れが」と吾妻はセキ込み「君、魂胆《こんたん》の在る所です、其れ程に仕組まねば我が同志を欺くことは出来ないのだ、現に見給へ、既に除名と定《き》まつて居る教会の親睦会《しんぼくくわい》へ、而《し》かも山木の別荘で開いた親睦会へ出席したのは何故《なぜ》であるか、特《こと》に其日山木の娘の梅子と云ふのと密会したのは何故であるか、其上に山木の長男《むすこ》の剛一と云ふのなどは常に篠田の家へ出入《でいり》して居るでは無いか――特《こと》に君等は知らぬであらうが、彼が表面非常な貧窮と質素とを装ふに拘《かゝは》らず、其の実は驚くべき華奢贅沢《きやしやぜいたく》をして居るのだ、彼を指して道徳堅固な君子だなど思ふのは、其の裏面を知らない者の買ひかぶりである、僕の如きも現に欺《あざむ》かれて居た一人《いちにん》のだ、そりや君、酒は飲む放蕩《はうたう》はする、篠田の偽善程恐るべき者は無い、現に其の掩《おほ》ふべからざる明証の一は、彼《か》の芸妓《げいぎ》の花吉を誘拐《いうかい》して内々自分の妾にしたのでも判つて居るぢやないか」
「左様《さう》だ/\、毫《がう》も疑ふ所は無い」と松本は愈々《いよ/\》激昂《げきかう》しつ「現に今度の九州炭山の一件でも知ることが出来る、本来ならば篠田が自身に出掛けて大《おほい》に煽動《せんどう》せにやならないのだ、然るに自分は東京に寝て居て、少しばかり新聞でお茶を濁してるんぢや無いか、僕は最初から彼奴《きやつ》が嫌ひだ、耶蘇《ヤソ》ばかり振り廻はしやがつて――」
 浦和は眼を閉ぢて沈黙す、
 吾妻は声を打ちひそめて「君、新聞社内では既に篠田の売節を誰一人疑ふものは無いのだ、只《た》だ余り目立たずに彼を放逐しなければ社其物の名誉に関するから、非常に苦心してるのサ、――彼が内々消費する金銭のことを考へるに、尋常のもので無いことは明白だ、多分|露探《ろたん》ぢや無からうかと云ふ社内の輿論《よろん》だがネ、――浦和君、僕の心事は君も知つて居るぢやありませんか、僕が何を好んで我が先輩たり恩人たる彼の不利を図《はか》るもんですか、大抵推察して呉れ給へ――」
「モウ、判つたよ、是れ程の証拠があれば充分だ、吾妻君、若《も》し君が無かつたならば、我党は非常な運命に陥《おちい》る所であつた」と、松本は昂然《かうぜん》として席を離れ「浦和君、時間が余程過ぎた」と急がしつ、ガチリ、錠《ぢやう》を解きて廊下に出でぬ、
 浦和は腕《うで》拱《こまぬ》きたるまゝ其後を追へり、

      *     *     *

 やゝ待ち倦《あぐ》みたる会員は急霰《きふさん》の如き拍手を以《もつ》て温厚なる浦和議長を迎へたり、議長は徐《おもむ》ろに開会の辞を宣して、今や書記をして今夜の議案を朗読せしめんとする時「議長ツ」と、大声に叫びて幹事松本常吉は起《た》ち上がりつ「本員は議事に入るに先《さきだ》ちて、一個の緊急動議を提起せねばなりませぬ」
 彼は梟《ふくろふ》の如き鋭き眼《まなこ》を放つて会衆を一睨《いちげい》せり、満場の視線は期せずして彼の赤黒き面上に集まりぬ、
 松本は咳《がい》一咳《いちがい》しつ「我が鍛工《かぢこう》組合の評議員篠田長二君の身上に就《つい》て、一個の動議を提出するんですから、先づ同君に向《むかつ》て暫時退席を要求致します」
 議席は騒《さわぎ》だてり、我々は真実を以て交はる者なれば、他の議会に見る如き忌避《きひ》或は秘密等の厭《いと》ふべき慣例を用ひざるべしとの議論|盛《さかん》なりしが、篠田はやがて起ち上がりつ、
「我輩も実に其議論の主張者でありますが、既に発議者よりの要求ある以上は、発議者をして充分に言はんとする所を尽《ことごと》くさしめん為め、謹《つゝしん》で自ら退席致します」一揖《いちいふ》して出で去れり、
 其の後影を一睨《いちげい》したる松本「諸君――我《わが》組合が尊敬して評議員の名誉をさへ与へたる篠田長二君が、何ぞ図《はか》らん、却《かへつ》て私利私慾の為めに我々の権利と幸福を売つて資本家党に降服したる証拠を捉《とら》へたのである」
 松本は議席を見過はせり、
 会衆は再び騒ぎ立てり「畜生」「馬鹿野郎」「除名せよ」「斬つて仕舞へ」等の声は一隅より囂々《がう/\》と起れり「誣告《ぶこく》」「中傷」「証拠を示せ」等の声は他の一隅より喧々《けん/\》と起れり、
「御指揮に及ばず、其証拠を御覧に入れるのです」と松本は手を揚げて之を制しつ「彼は愈々《いよ/\》山木剛造の長女梅子と結婚の内約|整《とゝの》ひ、伊藤侯爵が其|媒酌人《ばいしやくにん》たることを承諾したのである、彼は九州炭山坑夫同盟の真相を悉《ことごと》く大株主にして其重役なる山木に内通して、予防策を講ぜしめ、又た政府の狗《いぬ》となつて社会主義倶楽部及び我が組合の運動消息をば、一々府政へ密告して居るのである、今《い》ま幸《さいはひ》にして彼の内状を最も詳《つまびらか》にする、尤《もつと》も信用すべき人の口より其の報道を得たのは、天実に我々労働者の前途を幸ひするものと信ずるのである、依《よつ》て此《かく》の如き獅子身中の虫を退治せんが為めに本組合|先《ま》づ直《ただち》に彼を除名することの決議をして貰ひたい――緊急動議の要旨は是《こ》れである」
 松本は昂然《かうぜん》会衆を見廻して、自席に復せり、満場相顧みて語なし、
 議長浦和は徐《おもむ》ろに其席に起てり「松本君の動議は実に驚くべき問題でありまして、自分に於《おい》ては大《おほい》に心を苛《くるし》めて居りますが、就《つ》きましては――」
 議長の言|尚《な》ほ央《なかば》なるに、「議長」と呼《よん》で評議員席に起立したるは、平民週報主筆|行徳秋香《かうとくあきか》なり、彼は先刻来憤怒の色を制して、松本を睨視《げいし》しつゝありしが、今は最早《もは》や得堪へずして起ちたりしなり、満場|呼吸《いき》を殺して彼を見たり、彼は篠田と最も親交ある一人なればなり、
「松本君の只今の御説明は、我々の耳には何等の証拠をも与へたるものとは聞えない、我輩も篠田君の親友で、恐《おそら》く満場の諸君よりも同君の内状に詳《くはし》いであらうと思ふ、我輩は最も親交ある篠田君の一友人として、松本君の指摘されたる事実は、尽《ことごと》く無根の捏造説《ねつざうせつ》であることを断言します――抑《そもそ》も此の誣告《ぶこく》を試みたる信用すべき人物とは、何物でありますか」
 松本は猛然として、起てり「行徳君は僕を誣告者《ぶこくもの》と言はれた、怪《け》しからん、――諸君、僕が誣告者であるか否《いなや》は、公明正大なる諸君の判断に一任します、僕は只だ良心の命ずる所に従《したがつ》て此事を言ふのである」
「証人の名を言へ」と呼ぶものあり、
 声する方を松本は睨《にら》みつ「証人の名を言ふに及ばぬ、若《も》し諸君が僕を信用するならば、敢《あへ》て証人の姓名を問ふに及ばぬではないか」
 紛々たり、擾々《ぜう/\》たり、
「審判なしに宣告を下だすことは如何《いか》なる野蛮の法律も許《ゆ》るさぬ」と一隅に叫けぶものあり、
 松本はニヤリと冷笑を浮かべつゝ満場を見渡《みわ》たせり「諸君は証拠を要求せらるゝが、証拠を示さぬのは必竟《ひつきやう》彼に対する恩恵だ――諸君は彼を道徳堅固なる君子と信仰せられる様だ、恐ろしい君子があつたもんだ、芸妓買《げいしやかひ》を行《や》つて、自由廃業をさせて、借金を踏み倒ほさして、自宅《うち》へ引きずり込んで、其れで道徳堅固な君子と言ふんだ、成程|耶蘇教《ヤソけう》と云ふものは偉《え》らいもんだ」
 ヒヤ/\、大ヒヤなど頓狂《とんきやう》なる叫喚《けうくわん》は他の一隅に湧《わ》き上がれり、
 笑声ドツと四壁を動かしつ、

     十八の三

 此の光景《ありさま》を看《み》て取つたる松本常吉「議長、満場別に異議ないやうです、採決を願ひませう」
 憂色、面《おもて》に現然たる議長が何やらん唇《くち》を開かんずる刹那《せつな》「否《ノー》ツ」と一声、巨鐘の如く席の中央より響きたり、看《み》よ、菱川硬二郎は夜叉《やしや》の如く口頭より焔《ほのほ》を吐きつゝ突ツ起ちてあり、
「君等は真面目に其様《そんな》ことを言つとるのか――労働者は無智で軽忽《けいこつ》で、離間者の一言で起《お》こしも臥《ね》かしも出来るもんだと云ふことを発表しようとするのか――我々の周囲には日夜探偵の居ることを注意し給へ――否《い》な、我々の間にも或は探偵が潜伏しとるかも知れないのだ」
「誰を探偵だと云ふのか、菱川君」と松本は疾呼《しつこ》大声《たいしやう》す、「僕が其《それ》を答へる前に、松本君、君は尚《な》ほ弁明の義務を負《お》んどるぢやないか、君は誰の言を信じて篠田君を探偵と云ふのだ、売節漢と云ふのだ」
「イヤ、其問題は既に経過した、其れとも君は此の松本を指して虚言者と云ふのか」
 菱川の太き眉は釣り上がれり「其れが果して日本の労働者の言語なのか、日本の労働者は三百代言にも劣つた陰険な心を持つとるのか、――君は必ず或者から固く名前を秘する様に頼まれたのだらう、君が信用する或者とは、必ず憎《にく》むべき探偵であるに相違ない」
 松本は沸騰《ふつとう》する怒気に口さへ利かぬばかり、
 行徳は静に言ふ「諸君は少こし考へたならば、篠田君が果して我々同志を売るものか如何《どう》か知れるではないか、――同君が賤業婦人を救ひ出すのは珍らしいことではない、加之《しかのみならず》諸君は之を称讃して麗《うる》はしき社会的救済事業と認めて来たでは無いか、又た四月の大会の為め、九州炭山坑夫の為め、経費募集のことの為めに苦心|焦慮《せうりよ》して居らるゝことは、諸君も御承知の筈《はず》では無いか――」
「彼が募集し得た金を握つて敵陣へ降参する魂胆に、注意して貰ひたい」と松本は遮《さへぎ》りぬ、
「君等は猜疑心《さいぎしん》の為めに自殺するのか」流石《さすが》に行徳も遂《つひ》に赫怒《かくど》せり、
 頭を振りつゝ松本は躍《をど》り上つて叫ぶ「諸君は宜《よろ》しく自ら決断せねばならぬ、諸君は果して僕を信ずるか、信じないか」
「労働者諸君、諸君は共和民主々義を棄《す》てて擅制《せんせい》君主々義に従ふのか」と、手を振つて菱川は号叫《がうけう》す、
「勿論、我々労働者は社会主義の空論を排斥するのである、非戦論なんて云ふ書生論に捲《ま》き込まれるものとは違ふのである、我々|鍛工《かぢこう》の多数は現に鉄砲を造り軍艦を造つて飯を食つて居る
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