無情の世の中とは打《うつ》て変《かはつ》て、慥《たしか》に希望のある楽しき我が身と生れ替つたのです、――そして日曜日が誠に待ち遠くて、教会が一層|懐《な》つかしくて――彼人《あのかた》の影が見えると只《たゞ》嬉しく、如何《どう》かして御来会《おいで》なさらぬ時には、非常な寂寞《せきばく》を感じましてネ、私始めは何のこととも気が着《つか》なかつたのですが、或夜、何でも五月雨《さみだれ》の寂《さび》しい夜でしたがネ、余り徒然《つれづれ》の儘《まゝ》、誰やらの詩集を見てる時|不図《ふと》、アヽ私《わたし》ヤ恋してるんぢや無いか知らんと、始めて自分で覚《さと》りましたの、――」
涙に満てる梅子の眼は熱情に輝きつ、ありし心の経過一時に燃え出でて恍然《くわうぜん》として夢路を辿《たど》るものの如し、
銀子も我《わ》が曾《かつ》ての実験と思ひ較《くら》べて、そぞろに同情の涙|堪《た》へ難く「梅子さん貴嬢《あなた》の御心中は私|能《よ》く知ることが出来ますの」
「けれど銀子さん」と、梅子はうな垂《だ》れつ、「其の心の裡《うち》の喜びも束《つか》の間《ま》で、苦痛《くるしみ》の矢は忽《たちまち》ち私の胸に立つたのです、其れは貴女も御聞き及びになりましたやうに、私の父と篠田|様《さん》とが、仇敵《かたき》の如き関係になつたことです、けれど――銀子さん、私は篠田様の御議論が至当だと思ひました、私は常に父などの営利事業に不愉快を感じで居たのです、決して道理にも徳義にも協《かな》つたこととは思ひませんでしたが、篠田様の御議論を拝見して、始めて能《よ》く父等の事業の不道理不徳義なる、説明を得たのでした、其れで私は、彼人《あのかた》を良人《をつと》にすると云ふことは事情の許《ゆ》るさないものと思ひ諦《あきら》め、又た一つには、私の様な不束《ふつつか》な者が、彼様《あのやう》な偉い方の妻となりたいなど思ふのは、身の程を知らぬものと悟りましてネ、其れに彼人は既に家庭の幸福など云ふ問題は打ち忘れて、只だ偏《ひとへ》に主義の為めに御尽くしなさるのを知りましたものですから、私は心中に理想の良人と奉仕《かしづ》いて、此身は最早《もは》や彼人の前に献げましたと云ふことを慥《たしか》に神様に誓つたのですよ」
彼女《かれ》は心押し鎮《しづ》めつ「ですから銀子さん、私の心は決して孤独《ひとり》ではありません、――節操は女性《をんな》の生命ですもの、王の権力も父の威力も、此の神聖なる愛情の花園を犯すことは出来ません、――此頃父が九州からの帰途で、伊藤侯と同車したとやらで、侯爵が媒酌人《ばいしやくにん》になられるからと、父が申すのです、まア何と言ふ穢《けがら》はしいことでせう、伊藤侯と云ふものは我々婦人に取つては共同の讐敵《かたき》ではありませんか、銀子さん、私が松島様の申込を拒絶する為めに、仮令《たとへ》私の父が破産する如き不幸に逢《あ》ひませうとも、私は決して節操を涜《けが》すやうな弱い心は起しません、父の財産は不義の結果です、私は富める不義の家に悩める心を抱《いだ》いて在《ある》よりも、貧しき清き家に楽しき団欒《だんらん》を望むで居るのです――銀子さん、何卒安心して下ださいな」
梅子の美しき面《おもて》は日の如く輝けり、
銀子は袖かき合はせて傾聴しつ「――梅子さん、貴嬢《あなた》ほんとに幸福ネ――私《わたし》羨《うらやま》しいワ」
其の語尾の怪しくも曇《くもり》を帯べるに、梅子は眸《ひとみ》を凝《こら》して之を見たり、
十七の六
「銀子さん、私の何処《どこ》に羨《うらや》ましいことがありますか、貴女こそ婦人中の最も幸福な方だと、私真実思ひますよ」
答なき銀子の長き睫毛《まつげ》には露の玉をさへ貫くに梅子はいよゝ怪《あやし》みつ「貴女、何かおありなすつて――」
「梅子さん」と銀子は始めて涙を呑みつ「――男と云ふものはほんとに厭《いや》なものだと思ひましてネ、そりや女の方に足らぬ所がありもしませうけれど――」
「けれど銀子さん、道時さんに何もおありなさるんぢや無《ない》でせう」
「梅子さん、私、貴嬢《あなた》だから何も角《か》もお話しますがネ――矢張有るんですよ――つまり、私の不束《ふつつか》故に、良人《をつと》に満足を与へることが、出来ないのですから、罪は無論私にありますけれど、――男も亦《ま》た余り我儘《わがまゝ》過ぎると思ひますの――梅子さん、是れは世界の男に普通のでせうか、其れとも日本の男の特性なのでせうか」
「けれど銀子さん、道時さんが不品行を遊ばすと云ふ様なことは無いでせう」
銀子は俯《うつむ》きて首を振りぬ、
良久《しばし》ありて銀子はホツと吐息しつ「梅子さん、ほんとに幸福と思つたのは、結婚後の一年|許《ばかり》でしたの、私の心が静実《おちつく》に連れて、次第に私を軽蔑《けいべつ》する様になるんですよ――折々はネ、私の為めに余儀なく此様《こんな》結婚をして一生不幸を見たなんて、残酷《ひどい》ことさへ言ふんですよ、――言はれて見れば私にも弱点があるから、言ひたいこともジツと耐《こら》へて居ますけれども、余り身勝手過ぎるぢやありませんかネ――それにネ、着物だの、何だのも、此頃《ちかごろ》は斯様《かう》云ふのが流行だなんて自分で注文するんですよ、何処《どこ》の流行《はやり》かと思へば、貴嬢、皆な新橋辺《しんばしあたり》のぢやありませんか――婦人《をんな》は矢張《やつぱ》り日本風の温柔《おとなし》いのが可《い》いなんて申してネ、自分が以前|盛《さかん》に西洋風を唱《とな》へたことなど忘れて仕舞つて私にまで斯様《こんな》丸髷《まるまげ》など結《ゆ》はせるんですもの、私耻づかしくて、口惜《くちお》しくて堪りませんの――」
銀子は落る涙|拭《ぬぐ》ひつゝ「それに梅子さん他《ほか》の方の妻君《おくさん》など不思議だと思ひますよ、男子の不品行は日本の習慣だし、特《こと》に外交官などは其れが職務上の便宜《べんぎ》にもなるんだからなんて、平気で在《いら》つしやるんですよ――梅子さん、私は嫉妬心《しつとしん》が強いと云ふのでせうか」
「嫉妬心――」と梅子も覚えず、顔|紅《あか》らめつ「如何《いか》なる人でも境遇に打《う》ち克《か》つと云ふことは余程困難ですから、私は日本の様な不道徳な社会に在《あ》る婦人は、とても男子《をとこ》から報酬を望むことは断念せねばならぬと思ひますの、受くるよりも与ふるが寧《むし》ろ幸福ぢやありませんか、貴女が全心を挙げて常に道時さんを愛して居なさるならば必ず慚愧《ざんき》して、昔日《むかし》に優《まさ》る熱き愛憎を貴女に与へなさる時が来るに違《ちがひ》ありません」
「アヽ、梅子さん、其れが真理なんでせうねエ――」
「銀子さん、ほんとに貴女《あなた》こそ幸福ねエ――何故ツて?――貴女は愛を成就《じやうじゆ》なされたぢやありませんか、現今《いま》の貴女は只だ小波瀾の中に居なさるばかりです、銀子さん何卒《どうぞ》、私を可哀さうだと思つて下ださい、――私の全心が愛の焔《ほのほ》で燃え尽きませうとも、其《それ》を知らせる便宜《たより》さへ無いぢやありませんか、此のまゝ焦《こ》がれて死にましても、アヽ気の毒なことしたとだに思つて貰ふことがならぬではありませんか――何と云ふ不幸な私の鼓膜《こまく》でせう、『我は汝を愛す』と云ふ一語の耳語《さゝやき》をさへ反響さすることなしに、墓場に行かねばなりませんよ――」
「梅子さん」突如銀子は梅子の膝《ひざ》に身を投げ出し、涙に濡れたる二つの顔を重ねつ「梅子さん――寄宿舎の二階から閃《きら》めく星を算《かぞ》へながら、『自然』にあこがれた少女《をとめ》の昔日《むかし》が、恋しいワ――」
ワツと泣き洩《も》る声を無理に制せる梅子は、ヒシとばかり銀子を抱《いだ》きつ、燃え立つ二人の花の唇、一つに合して、暫《し》ばし人生の憂《う》きを逃れぬ、
遠音に響くピヤノとウァイオリンの節面白き合奏も、神の御園《みその》の天楽と聴かれて、
十八の一
国民の耳目《じもく》一に露西亜《ロシヤ》問題に傾きて、只管《ひたすら》開戦の速《すみや》かならんことにのみ熱中する一月の中旬、社会の半面を顧《かへりみ》れば下層劣等の種族として度外視されたる労働者が、年々歳々其度を加ふる生活の困苦惨憺《こんくさんたん》に、漸《やうやく》く目を挙げて自家の境遇を覚悟するに至り、沸騰《ふつとう》せんばかりの世上の戦争熱も最早《もはや》や、彼等を魔酔《ますゐ》するの力あらず、彼等の心の底には、「戦争に全勝せよ、夫《さ》れど我等は益々|苦《くるし》まん」との微風の如き私語《さゝやき》を聴く、去れば九州炭山坑夫が昨秋来増賃請求の同盟沙汰伝はりてより、同一の境遇に同一の利害を感ずる各種の労働者協同して、緩急相応ぜんとの要求日に益々激烈を加へ、四月三日を以て東京市に第一回労働者大会議を開くべきこととはなりぬ、
其の中堅は社会主義|倶楽部《クラブ》にして、篠田長二の同胞新聞は実に其の機関たり、
歯牙《しが》にも掛けずありける九州炭山坑夫の同盟罷工今や将《まさ》に断行せられんことの警報伝はるに及《およん》で政府と軍隊と、実業家と、志士と論客と皆《み》な始めて愕然《がくぜん》として色を失へり、声を連《つら》ね筆を揃《そろ》へて一斉《いつせい》に之を讒謗《ざんばう》攻撃して曰《いは》く「軍国多事の隙《げき》に乗じて此事をなす先《ま》づ売国の奸賊を誅《ちゆう》して征露軍門の血祭《ちまつり》せざるべからず――」
* * *
労働者の大会準備の為めに、今宵《こよひ》しも上野|鶯渓《うぐいすだに》なる鍛工《かじこう》組合事務所の楼上に組合員臨時会開かれんとするなり、寒風|膚《はだ》を裂いて、雪さへチラつく夕暮より集まりたるもの既に三百余名、議長の卓上には書類|堆《うずたか》く積まれて開会の鈴《ベル》を待ちつゝあり、
此時階下の事務室、扉を鎖《とざ》して鳩首《きうしゆ》密議する三個の人影を見る、目を閉ぢて沈黙する四十五六とも見えて和服せるは議長の浦和|武平《ぶへい》、眉を昂《あ》げて咄々《とつ/\》罵《のゝし》る四十前後と覚《おぼ》しき背広は幹事の松本常吉、二人を対手《あひて》に喋々《てふ/\》喃々《なん/\》する未《ま》だ廿六七なる怜悧《れいり》の相、眉目の間に浮動する青年は同胞新聞の記者の一人|吾妻俊郎《あづまとしらう》なり、
松本は拳《こぶし》を固めて卓《つくゑ》を打ちつ「実に怪《け》しからん奴だ、其事は僕も予《あらかじ》め行徳君に注意したことがあつたが、行徳君は無雑作《むざふさ》に打ち消して仕舞《しま》つた――八ツ裂きにしても此の怨《うらみ》は霽《は》れない」
「然《し》かし、松本君、余りに意外な報告なので私は何分にも信用出来ませぬで――」と、浦和は瞑目《めいもく》のまゝ思案に沈めり、
「イヤ、浦和さん」と吾妻は乗出で「信用なさらぬのは御道理《ごもつとも》です、斯《か》く云ふ僕が最初は如何《どう》しても出来なかつたですから、――御承知の如く僕は従来《じらい》篠田を殆《ほとん》ど崇拝して居たんでせう、彼の秘書官の如く働くので、社員中に大分不平|嫉妬《しつと》の声が盛《さかん》なのです、けれど一身の毀誉褒貶《きよはうへん》の如《ごと》きは度外に措《お》きて、只《た》だ篠田の為めに一臂《いつぴ》の労を執《と》ることを無上の満足として居たのです――然《しか》るに段々彼の内状を詳《つまびらか》にすると、実に其の裏面に驚くべき卑劣《ひれつ》の野心を包蔵することが聊《いさゝ》か疑《うたがひ》ないので――御両君、僕は実に失望落胆の為め殆《ほとん》ど発狂するばかりに精神を痛めたです――乍併《しかしながら》更に退《しりぞい》て考へると、是《こ》れは徒《いたづ》らに愁歎《しうたん》して居るべき時でない、僕の篠田を崇拝したのは其の主義に在るのだ、彼が主義の仮面を被《かぶ》つて、却《かへつ》て我等同志を売ることを目
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