きやう》帝国主義と、社会主義との衝突ぢや、松島、確乎《しつかり》せんとならんぞ」と侯爵は得意満面に松島を見やりつ「然《し》かし松島、才色兼備の花嫁を周旋する以上は、チト品行を慎《つゝし》まんぢや困まるぞ、此頃は切《しき》りと新春野屋の花吉に熱中しをると云ふぢやないか」
浜子は侯爵の顔さしのぞき「御前《ごぜん》、其の花吉と申す芸妓《げいしや》は先頃廃業したさうで御座んすよ」
侯爵は打ち驚き「オ、廃業しをつた――新開に在つたと、浜子、其方《そち》は能《よ》う新聞を見ちよるな、感心ぢや――松島、其の根引き主《ぬし》は貴公ぢや無いか、白状せい」
松島の苦《に》がり切つたる容子《ようす》に、山木は気の毒顔に口を開きつ「――実は、閣下、其れも矢張篠田の奸策で御座りまする」
「ナニ、花吉を篠田が落籍《ひか》せをつたと――フム、自由廃業、社会党の行《や》りさうなことぢや――彼女《あれ》には我輩も多少の関係がある、不埒《ふらち》な奴、松島、篠田ちふ奴は我輩に取つても敵ぢや、可也《よし》、此上は山木の嬢《むすめ》は何事があるとも、必ず松島へ嫁《や》らねば、我輩の名誉に係《かゝ》はるわい」
意気|軒昂《けんかう》、面色朱を濺《そゝ》ぎたる侯爵は忽然《こつぜん》として山木を顧みつ「然《し》かし山木、君もナカ/\酷《ひど》い男ぢやぞ、何《どう》ぢや、ぽん子は相変らず奇麗《きれい》ぢやろナ、今を蕾《つぼみ》の花の見頃と云ふ所を、突如《だしぬけ》に横合から根こぎにするなどは、乱暴極まるぢやないか、松島のは社会主義に対する帝国主義の敗北、我輩のは金力に対する権力の失敗ぢや」
頭掻きつゝ山木の困却の態に、侯爵は愈々興を催ふしつ「何程《なんぼ》花婿が放蕩《はうたう》して、大切《だいじ》な娘が泣きをつても、苦情を申入れる権利があるまい、ハヽヽヽヽ山木、君の様な爺《おやち》の機嫌《きげん》取つて日蔭の花で暮らさせるは、ぽん子の為めに可哀さうでならぬぢや」
剛造は只だ赤面恐縮、
大佐はニヤリと浜子を一瞥しつ「が、閣下、山木は閣下に比ぶれば、未《ま》だ十幾つと云ふ弟《おとゝ》ださうですよ」
剛造ほツと一道の活路を待つ「大きに松島様の仰《おほせ》の通りで、ヘヽヽヽヽ」
侯爵も頭撫でて大笑しつゝ「ヤ、松島、最早《もう》舅《しうと》の援兵か、余り現金過ぎるぞ」
「品川々々」と呼ぶ駅夫の声と共に※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車《きしや》は停《とま》りぬ、
「オヽ、もう品川ぢや、浜子」と侯爵は少女の手を採《と》りて急がしつ「今夜は杉田の別荘に一泊するから失敬する」と言ひ棄てたるまゝ悠然《いうぜん》降り立ちて、闇《やみ》の裡《うち》へと影を没せり、
窓に凭《よ》りて見送り居たる松島は舌打ちつ「淫乱爺《いんらんおやぢ》の耄碌《まうろく》ツ」
十七の一
麹町《かうぢまち》は三番丁なる清風《せいふう》女学校には、今日しも新年親睦会、
校友の控所に充《あ》てられたる階上の一室には、盛装せる丸髷《まるまげ》、束髪《そくはつ》のいろ/\居並びて、立てこめられたる空気の、衣《きぬ》の香に薫《かを》りて百花咲き競《きそ》ふ春とも言《いふ》べかりける、
中央の椅子に懸《かゝ》りたる年既に五十にも近からんと思はるゝ麦沢教授、小皺《こじわ》見ゆる頬辺《ほゝのあたり》に笑《ゑみ》の波寄せつ「皆さんが立派な奥様におなりなすつたり、阿母《おつか》さんにおなりなすつた御容子《ごようす》を拝見する程、私共《わたしども》に取つて楽《たのしみ》は御座んせんのね、之を思ふと私などは能《よ》くまア腰が屈《まが》つて仕舞はないと感心致しますの――否《いゝ》エ、此頃は、もう、ネ、老い込んで仕様《しやう》がありませんの、自分ながら愛想が尽きる程なんですよ――斯《か》う御見受け申した所、夏野様の旦那様は内務の参事官、秋葉様のは衆議院議員、冬田様のは日本銀行の課長さん、春山様のは陸軍中尉、蓮池様のは大学数授、何殿《どなた》も国家の大任ですねエ、桜井様のは留学中で御帰朝の後は医学博士、松村様のは弁護士さん――」
と、次第に読み上げ行きしが、偖《さて》其次席に列《つら》なれる山木梅子が例の質素の容子《ようす》を見て、暫《しば》し躊躇《ためら》ひつ「山木様は独立で、婦人社会の為に御働《おはたらき》なさらうと云ふ御志願で、特《こと》に阿父《おとつさん》は屈指の紳商で在《いら》つしやるのですから」
と、相当なる理由を発見して頌徳表《しようとくへう》を呈したる時、春山と呼ばれたる陸軍中尉の妻女「あら、麦沢先生、山木様は疾《と》くに御約束で、最早《もう》近々に御輿入《おこしい》れになるんですよ」と、黄色な声して嘴《くち》を容《い》れぬ、
「左様《さう》ですか」と、麦沢女教授は円《まる》くしたる眼《まなこ》を、忽《たちま》ち細くして笑《ゑ》みつくろひ、「山木様、まア、お目出度《めでたう》御座います、存じませんでしたもんですから、ツイ、失礼致しましてネ、――シテ、春山様、何殿《どなた》」
「先生が御存《ごぞんじ》無《なか》つたとは驚きましたねエ」と春山は容子つくろひ「あの、海軍大佐の松島様へ」
「オヽ、あの松島さんへ」と女教授は驚きしが「実権海軍大臣などと新聞で拝見する松島さんへ――左様《さう》ですか、山木様、貴嬢《あなた》にはほんとに御似合の御縁組ですよ」
一座の視線は皆な沈黙せる梅子の面上に集まりぬ、
松村と言へる弁護士の妻女は、独り初めより怪しげに打ち目《ま》もり居たりしが「先生、私《わたし》も山木様の御縁談の御噂《おうはさ》をお聞き申しましたが、只今の御話とは少《す》こし違ふ様ですよ」
「エ、松村様、ぢや何殿《どなた》と仰《おつ》しやるのです」
松村は梅子の顔恐る/\見やりながら「間違ひましたら山木様、御免下ださいな――あの、同胞新聞社の篠田様へ――」
麦沢教授は反歯《そつぱ》剥《む》き出してハツハと打ち笑へり「松村様、何を仰《おつ》しやる、山木様が何で彼様男《あんなひと》の所などへお嫁《い》でになるもんですか、私《わたし》も何時でしたか、何かの席で篠田と云ふ人見ましたがネ、貴女《あなた》、彼《あれ》は壮士ですよ、何《どう》して彼様《あんな》貧乏人と山木様が御結婚出来ますか」
「いゝえネ、先生、只だ私は山木様の教会と関係のある人から聞いたのですから――」
と松村の穏かに弁疏するを、彼《か》の春山はシヤちやり出でつ「私《わたし》は良人《やど》から聞きましたのです、現に松島様が御自分で御披露になりましたさうで、軍人社会では誰知らぬものも無いので御座います」
曰《いは》く松島自身の披露、曰く軍人社会の輿論《よろん》而《しか》して之を言ふものは、現に陸軍中尉の妻女、何人か又た之を疑はん「山木様はタシカ軍人はお嫌《きらひ》の筈《はず》でしたがネ」「独身主義の御講義を拝聴した様にも記憶致しますが」「オールド、ミスも余り立派なものでありませんからね」、など、聞えよがしの私語《さゝやき》も洩れぬ、
梅子が余りの沈黙に、一座いたくシラけ渡りぬ、
扉開かれて、歴年の老小使、腰打ち屈《かが》めつ「山木様――菅原の奥様が五号室に御待ち受けで御座います」
之を機会に梅子は椅子《いす》を離れつ「失礼」と一揖《いちいふ》して温柔《しとや》かに出で行けり、
十七の二
第五号教室のピヤノの側《わき》に人待ち顔なる大丸髷《おほまるまげ》の若き婦人は、外務書記官菅原道時の妻君銀子なり、扉しとやかに開かれて現はれたる美しき姿を見るより早く、嬉しげに立ち上がりつ、「オヽ梅子さん」
「銀子さん」
相見て嫣然《えんぜん》、膝《ひざ》つき合はして椅子《いす》に座せり、
「梅子さん、ほんとに久濶《しばらく》ですことねエ、私、貴嬢《あなた》に御目に懸《かゝ》りたくてならなかつたんですよ、手紙でとも思ひましたけれどもね、其れでは何《どう》やら物足らない心地《こゝち》しましてネ――今日も少こし他に用事があつたんですけれども、多分、貴嬢が御来会《おいで》になると思ひましたからネ、差繰つて参りましたの」
「私《わたし》もネ、銀子さん、此頃|切《しき》りに貴女《あなた》が懐《なつか》しくて堪らないで居ましたの、寧《いつ》そ御邪魔に上らうかと考へましたけれどネ、外交のことが困難《むつかし》いさうですから、菅原様も定めて御多用で在《いら》つしやらうし、貴嬢《あなた》にしても矢張《やつぱ》り御屈托で在《いら》つしやらうと遠慮しましてネ」
「あら、梅子さん、いやですことねエ、――結婚すると御友達と疎遠になるなんて皆様仰しやるんですけれど、貴嬢まで矢張《やつぱり》其様事《そんなこと》を仰つしやらうとは思ひも寄りませんでしたよ」
「銀子さん、左様《さう》ぢやありませんよ」
銀子は熟々《つくづく》と梅子の面《かほ》打ちまもり居たりしが「梅子さん、貴嬢《あなた》はほんとに御憔悴《おやつれ》なすツたのねエ、如何《どうか》なすつて――」
「否《いゝえ》、別に如何《どう》も致しませんの」
「けども、何か御心配でもおありなさらなくて」
「否《いゝえ》――心配と云ふ程のこともありませんがネ――」
「心配と云ふ程で無くとも、何か御在《おあ》りなさるでせう」
と銀子は顔差し付けて声打ちひそめ「私《わたし》、貴嬢《あなた》に御聴《おきゝ》せねば安心ならぬことがあるんですよ――梅子さん、貴嬢、ほんとに彼《あ》の海軍の松島|様《さん》と御約束なさいまして――」
梅子は目を閉ぢて無言なり、
「梅子さん、私《わたし》ネ、其を道時から聴きましても、貴嬢《あなた》から直接に聴かなければ安心が出来ないんですもの」
「銀子さん、貴女まで其様《そんな》風評を御信用下ださるんですか――」涙ハラ/\と膝に落ちぬ、
銀子は梅子の手を握れり「梅子さん、貴嬢は私が、其様《そんな》風評を信用するものと御疑ひ下ださいますの――」
梅子は握られし銀子の手を一ときは力を籠《こ》めて握り返へしつ「否《いゝえ》、銀子さん、私は学校《こゝ》に居た時と少しも変らず、貴嬢を真実の姉と懐《おも》つて居るんです」
「梅子さん、有難う――何《ど》うしたわけか、初めて入学した時から貴嬢とは心が会つて、私が一つ年上ばかりに貴嬢の姉と呼ばれる様になつたことは、何程嬉しいとも知れないのです、道時が何か私の非難など致します時には、併《し》かし私の妹《いもと》に山木梅子と云ふ真の女丈夫《ぢよぢやうぶ》が在りますよと誇つて居るのです――丁度《ちやうど》昨年の十月頃でしたよ、外交問題が八釜敷《やかましく》なり掛けた頃と思ひますから――道時が晩餐《ばんさん》の時、冷笑《わら》ひながら、お前の御自慢の梅子さんも、到頭《たうとう》海軍の松島の所へ行くことになつたと言ひますからネ、私は断然之を打ち消したのです、梅子さんも御自分で是れならばと信じなさる男子《ひと》を得なすツたならば、進《すゝん》で御約束もなさらうし、又た強《し》ひても御勧め申すけれど、軍人は人道の敵だとまで思つて居なさる梅子さんが、特《こと》に不品行不道徳な松島様などに御承諾なさる筈《はず》が無い、又た若《も》し其れが真実ならば必ず梅子さんから、御報知《おしらせ》がある筈だと頑張《ぐわんば》つたのですよ、スルと憎《に》くらしいぢやありませんか、道時が揶揄《からかい》半分に、仮令《たとへ》梅子さんからの御報知は無くとも、松島の口から出たのだから仕様《しやう》が在《あ》るまい抔《など》と言ひますからネ、彼様《あんな》松島様などの言ふことが何の証拠になりますと拒絶《はねつけ》て遣《や》りましたの、其《それ》ツきり道時も何も言ひませんでしたがネ、昨日ですよ、外務省《やくしよ》から帰りましてネ、服も更《あら》ためずに言ふんです、梅子さんの結婚談も愈々《いよ/\》進んで、伊藤侯が媒介者となられ、近日中に式を挙げらるゝさうだと、大威張に言《いふ》ぢやありませんか、私には如何《どう》しても解らないのです、相手が松島様で、媒介が伊藤侯と云
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