ですネ――此春の文学会で貴嬢《あなた》が朗読なされた遁世者《よすてびと》諷刺の新体詩を、私《わたし》は今も尚ほ面白く記憶して居りますが――」
「今年の春」と梅子は微《かす》かに吐息《といき》洩らして「浅墓《あさはか》な彼《あ》の頃を私《わたし》はホンたうに耻づかしく思ひます、世を棄《す》て人を逃れた古人の心に、私は、篠田さん、今ま始めて真実同情を寄せることが出来るやうになりました」
 篠田は仰げる眼を転じて、斜めに彼女《かれ》を顧《かへり》みたり「私《わたし》は意外なる変化を見るものです――梅子さん、貴嬢《あなた》の信仰は今ま実に恐るべき危機に臨むで居なさいます――何か非常なる苦悶《くもん》の針が今ま貴嬢の精神を刺してるのではありませぬか」
 梅子は答へず、
「貴嬢《あなた》の心は今ま正に生死二途の分岐点に立つて居なさる様です、如何《どう》です、甚《はなは》だ失礼でありますが、御差支《おさしつかへ》なくば貴嬢の苦痛の一端なりとも、御洩らし下ださい、年齢上の経験のみは、私の方が貴嬢よりも兄ですから、何か智恵の無いとも限りませぬ」俯《うつむ》ける梅子の頬には二条《ふたすぢ》三条《みすぢ》、
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