け、樹《こ》の間《ま》をくぐり芝生を辿《たど》り、手を振り体《たい》を練りつゝ篠田は静かに歩みを運び来《きた》る、市《いち》に見る職工の筒袖《つつそで》、古画に見る予言者の頬鬚《ほほひげ》、
「先生、渡辺の老女《おば》さんがお待ちなされてです」と呼ばれる大和の声に、彼は沈思の面《おもて》を揚げて「其れは誠に申訳がありませんでした」
「イヽエ、先生どう致しまして」と老女は縁の障子《しやうじ》を開けぬ、
 彼は書斎へ老女を招致せり、新古の書巻|僅《わづか》に膝を容《い》るゝばかりに堆積散乱して、只《た》だ壁間モーゼ火中に神と語るの一画を掛くるあるのみ、
「毎度皆様の御厄介に成りまするので、実に恐縮に存じます」
 老女は手もて之ぞ遮《さへぎ》り「なんの先生、貴郎《あなた》に奥さんのお出来なさる迄は婦人会の方で及ばずながら御世話しようツて、皆さんの御気込《おきご》ですから――」
「しかし老女《おば》さん、最も良き妻を持つ世界の最も幸福なる人よりも、私の方が更に幸福の様に思ひますよ」彼は茶を喫《きつ》しつゝ斯《か》く言ひて軽く笑ふ、
「飛んだこと、何《ど》んなダラシの無い奥様でも、まさか十月にな
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