ヽ是れぢや矢ツ張り遣《や》り切れねい」
「所が、お前《めい》、女房は産後の肥立《ひだち》が良くねえので床に就いたきり、野郎は車でも挽《ひ》かうツて見た所で、電車が通じたので其れも駄目よ、彼此《かれこれ》する中に工場で萌《きざ》した肺病が悪くなつて血を吐く、詮方《せうこと》なしに煙草の会社へ通つて居た十一になる娘を芳原《よしはら》へ十両で売《うつ》て、其《それ》も手数の何のツて途中へ消えて、手に入つたのは僅《たつ》たお前、六両ぢやねいか、焼石に水どころの話ぢやねエ、其処《そこ》で野郎も考へたと見える、寧《いつ》そ俺と云ふものが無かつたら、女房も赤児《あかんぼ》も世間の情の陰で却《かへつ》て露の命を継《つな》ぐことも出来ようツてんで、近所合壁へ立派に依頼状《たのみじやう》を遺《のこ》して、神田川で土左衛門よ」
「成程そんな新聞を見た覚《おぼえ》もある」と誰やらが言ふ、
「あんな大した腕持つてる律義《りちぎ》な職人でせエ此の始末だ、さうかと思《お》もや、悪い泥棒見たいな奴が立身して、妾《めかけ》置いて車で通つて居る、神も仏もあつたもんぢやねエ」
 秋の夜の更《ふ》け行く風、肌に浸《し》みて一
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