はれたるは乳母の老女なり「奥様が梅子は何処《どこ》へ行つたかつて、御疳癪《おかんしやく》で御座います」
「アヽ、左様《さう》でせう」と言ひつゝ、篠田はヤヲら石を離れたり、
 去れど梅子は起たんともせず、

     六

 十一月|中旬《なかば》の夜は既に更《ふ》け行きぬれど、梅子は未《いま》だ枕にも就《つ》かざるなり、乳母なる老婆は傍《かたはら》近く座を占めて、我が頭《かしら》にも似たらん火鉢の白灰《はひ》かきならしつゝ、梅子を怨《うら》みつかき口説《くど》きつ、
「でも、お嬢様、今度と云ふ今度は、従来《これまで》のやうに只だ厭《いやだ》ばかりでは済みませんよ、相手が名に負ふ松島様で、大洞様の御手を経《へ》ての御縁談で御座いますから、奥様は大洞と山木の両家の浮沈に関《かゝ》はることだから、無理にも納得《なつとく》させねばならぬと、彼《あ》の通りの御意気込み、其れに旦那様《だんなさま》も、梅も余り撰《え》り嫌《ぎ》らひして居る中に、年を取り過ぎる様なことがあつてはと云ふ御心配で御座いましてネ、此頃も奥様の御不在の節、私を御部屋へ御招《おまねき》になりまして、雪の紀念《かたみ》の梅だから、何卒|天晴《あつぱれ》な婿《むこ》を取らせたいと思ふんで、松島は少こし年を取過ぎて且《か》つは後妻と云ふのだから、梅にはチと気の毒ではあるが、何せよ今ま海軍部内では第一の幅利《はばき》き、愈々|露西亜《ロシヤ》との戦争でもあれば少将か中将にもならうと云ふ勢、梅の良人《をつと》として決して不足が有るとは思はれぬ、其上大洞にせよ自分にせよ、一《ひ》と通《とほり》ならぬ関係があるので、懇望《こんまう》されて見ると何分にも嫌《いや》と云ふことが言はれないハメのだから、此処《こゝ》を能《よ》く呑《の》み込んで承知して欲しいのだと、此婆に迄頭を下げぬばかりの御依頼《おたのみ》なんで御座います――此婆にしましてが、亡《せんの》奥様《おくさま》にお乳を差上げ、又た貴嬢《あなたさま》をも襁褓《むつき》の中からお育て申し、此上貴嬢が立派な奥様におなり遊ばした御姿を拝見さへすれば、此世に何の思ひ残すことも御座いません、寧《いつ》そ御決心なされては如何《いかが》で御座ります」
 梅子は机に片肘《かたひぢ》もたせしまゝ、繙《ひもと》ける書上に、空しく視線を落とせるのみ、
「それとも、お嬢様、外に貴嬢《あなたさ
前へ 次へ
全148ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング