します所では無いでせうか、是れは神の殿《みや》がエルサレムでも無く、羅馬《ラウマ》でもなく、永阪でもなく青山でも、本郷でも無いと云ふ我々の実験ではありませぬか、――社会の富が日々に殖えて人の飢ゆるるのが愈々《いよ/\》増す、富めるものと貧しきものと諸共に、肉体の為に霊魂を失ふ、是れが神の国への路でせうか、ケレ共|何処《どこ》の教会に此の暗黒界の燈火が点《つ》いて居りますか、今《い》ま若《も》し基督《キリスト》が出で来り給ふならば、ソして富める者の天国に入るは駱駝《らくだ》の針の穴を出づるよりも難しと説き給ふなちば、彼を十字架に懸けるるのは果して誰でせう、王も貴族も富豪も皆《みん》な盃《さかづき》を挙げて笑つて居ませう、けれ共王と貴族と富豪との傲慢《がうまん》と罪悪とに媚びて、縷《いと》の如き生命を維《つな》いでる教会は戦慄《せんりつ》します、決して之を容赦致しませぬ」
 篠田は正面に聳《そび》ゆる富岳の雪を指しつ、「日本国民は此雪を誇ります、けれ共|私《わたし》は未《いま》だ我国民によりて我神意を発揮されたる何の産物をも見ない、彼等は兵力を誇ります、是れは神の前に耻づべきことです、万国は互に競《きそ》うて滅亡に急ぎつゝあるです、私共は彼等を呼び留めますまい、寧《むし》ろ退《しりぞい》て新しき王国の礎《いしずゑ》を据ゑませう」
 彼は又た梅子を顧みつ「貴嬢《あなた》は特に青年の為に御配慮です、乍併《しかしながら》今日《こんにち》の青年は、牧者の杖《つゑ》を求むる羊と云ふよりは、母※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《おやどり》の翼を頼む雛《ひな》であります、――枕すべき所もなき迫害の荒野に立ちて基督《キリスト》の得給ひし慰《なぐさめ》は、単《ひと》り天父の恩愛のみでしたか、否《い》な、彼に扈従《こじゆう》せる婦人の聖《きよ》き同情は、彼が必ず無量の奨励を得給ひたる地上の恵与であつたと思ふ、梅子さん、秋の霜《しも》、枯野の風の如き劇烈なる男児の荒涼《くわうりやう》が、春霞《はるがすみ》の如き婦人の聖愛に包まれて始めて和楽を得、勇気を得、進路を過《あやま》たざることを得る秘密をば、貴嬢は必ず御了解なさるでせう」
 恍然《くわうぜん》と仰ぎたる梅子の面《かほ》は日に輝く紅葉に匂へり、
「御嬢様! どんなに御探《おさ》がし申したか知れませんよ」と忽如《こつぢよ》として現
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