鬢《びん》のほつれの只だ微動するを見る、
「篠田さん、貴郎《あなた》の高き御心には」と、梅子は良久《しばらく》して僅《わづか》に面《かほ》を上げぬ「私共《わたくしども》一家が、何程《どんなに》賤しきものと御見えになるで御座いませう、――私は神様にお祈するさへ愧《はづ》かしさに堪へないので御座いますよ――」
「それは何故です――」
 梅子は又た頭《かうべ》を垂れぬ、長き睫毛《まつげ》に露の白玉|貫《ぬ》ける見ゆ、
「梅子さん、私《わたし》は未《ま》だ貴嬢《あなた》の苦悶《くもん》の原因を知ることが出来ませぬが、何《いづ》れにも致せ、貴嬢の精神が一種の暗雲に蔽《おほ》はれて居ると云ふことは、唯に貴嬢御一身の不幸ばかりではなく、教会の為め、特《こと》に青年等の為め、幾何《いか》ばかりの悲哀《かなしみ》でありませうか」
「否《いゝえ》、私の苦悶《くもん》が何で教会の損害になりませう、篠田さん、私の苦悶の原因と申すは、今日《こんにち》教会の上に、別《わ》けても青年の人々《かたがた》の上に降りかゝつた大きな不幸悲哀で御座います」
「其れは何ですか」
「篠田さん――貴郎の除名間題で」
「私《わたし》は今更に自分の無智を耻《は》づかしく思ひます」梅子は又た語を継《つ》ぎぬ「私は今日《こんにち》迄《まで》、教会は慥《たしか》に世の光であると信じて居りました、今ま始めて既に悪魔の巣であつたことを見ることが出来ました、――而《し》かも其悪魔が私の父です――今日《こんにち》の会合《あつまり》は廿五年の祝典《いはひ》では御座いませぬ、光明《ひかり》を亡ぼす悪魔の祝典《いはひ》です、――我父の打ち壊《こ》はす神殿の滅亡を跪《ひざまづ》いて見ねばならぬとは、何と云ふ恐ろしき刑罰でせうか」
「其れは貴嬢《あなた》の誤解です」と篠田は首を振りぬ、「是《こ》れは新《あらた》に驚くべきことでは無いのです、失礼ながら貴嬢の父上は、神の教会を攪乱するの力を有つて居なさらぬ、梅子さん、私《わたし》が貴嬢の父上に向《むかつ》て攻撃の矢を放つたことは昨日今日のことではありませぬ、貴嬢も常に其を御読み下すつたでせう、又た御聴き下だすつたでせう、けれ共私は今日《こんにち》に至る迄、貴嬢との友誼《いうぎ》の上に何の障礙《しやうがい》をも見なかつたと思ふ、是れは規定《さだめ》の祈祷会や晩餐会に勝《まさ》りて、天父の嘉納ま
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