嬢梅子なり、
五の三
赧《あか》らむ面《かほ》に嫣然《えんぜん》として、梅子は迎へぬ、
「梅子さん、貴嬢《あなた》が此辺《このあたり》に在《い》らつしやらうとは思ひ寄らぬことでした、」と篠田は池畔《ちはん》の石に腰打ちおろし「どうです、天は碧《みどり》の幕を張り廻はし、地は紅《くれなゐ》の筵《むしろ》を敷き連《つ》らね、鳥は歌ひ、雲は舞ふ、美妙なる自然の傑作を御覧なさい」
「けれど、篠田さん、何故人間ばかり此の様に、罪の心に悩むのでせう」
「左様《さやう》、何人《なんぴと》か罪の悩を抱《いだ》かぬ心を有《も》つでせうか」と篠田は飛び行く小鳥の影を見送りつゝ「けれど、悩はやがて慰に進む勝利の標幟《しるし》ではないでせうか」
「ですけれど、私《わたし》はドウやら悩みに悩むで到底《たうてい》、救の門の開かれる望がない様に感じますの」梅子は只《た》だ風なくて散る紅《くれなゐ》の一葉に、層々|擾《みだ》れ行く波紋をながめて、
「ハア、貴嬢《あなた》は劇《にわか》に非常なる厭世家にお化《な》りでしたネ」
「私《わたし》は篠田さん、此頃ツクヅク人の世が厭《いや》になりました」
「奇態ですネ――此春の文学会で貴嬢《あなた》が朗読なされた遁世者《よすてびと》諷刺の新体詩を、私《わたし》は今も尚ほ面白く記憶して居りますが――」
「今年の春」と梅子は微《かす》かに吐息《といき》洩らして「浅墓《あさはか》な彼《あ》の頃を私《わたし》はホンたうに耻づかしく思ひます、世を棄《す》て人を逃れた古人の心に、私は、篠田さん、今ま始めて真実同情を寄せることが出来るやうになりました」
篠田は仰げる眼を転じて、斜めに彼女《かれ》を顧《かへり》みたり「私《わたし》は意外なる変化を見るものです――梅子さん、貴嬢《あなた》の信仰は今ま実に恐るべき危機に臨むで居なさいます――何か非常なる苦悶《くもん》の針が今ま貴嬢の精神を刺してるのではありませぬか」
梅子は答へず、
「貴嬢《あなた》の心は今ま正に生死二途の分岐点に立つて居なさる様です、如何《どう》です、甚《はなは》だ失礼でありますが、御差支《おさしつかへ》なくば貴嬢の苦痛の一端なりとも、御洩らし下ださい、年齢上の経験のみは、私の方が貴嬢よりも兄ですから、何か智恵の無いとも限りませぬ」俯《うつむ》ける梅子の頬には二条《ふたすぢ》三条《みすぢ》、
前へ
次へ
全148ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング