、梅子さんの胸底には若《も》し、恋《ラブ》が潜んでるのぢや無からうか」大橋は莞爾《につこ》と打ち笑み「勿論《もちろん》! 彼女の心が恋愛《こひ》の聖火に燃ゆること、抑《そ》も一朝一夕の故《ゆゑ》に非らずサ、遂《つひ》に石心木腸《せきしんもくちやう》なる井上与重の如きをして、物や思ふと問はしむる迄に至つたのだ、僕の如きは疾《とく》の昔から彼女をして義人を得、彼をして才色兼備の良婦を得せしめ給はんことを祈つて居るんだ」
「成程、さうか、何卒早く其れを見たいものだネ」
「所が、君、一《ひ》と通《とほり》のことで無いので、作者|頗《すこぶ》る苦心の体《てい》サ――さア行かう、今度は彼《あ》の菊の鮨屋《すしや》だ、諸君決して金権党の店に入るべからずだヨ」
 既にして群集《ぐんじゆ》の眸子《ぼうし》、均《ひと》しく訝《いぶ》かしげに小門の方に向へり、「オヤ」「アラ」「マア」篠田長二の筒袖姿|忽然《こつぜん》として其処に現はれしなり、
「先生|来《らい》」と学生の一群は篠田を擁して躍《をど》り行きぬ、
 お加女《かめ》夫人は遙《はるか》に之を見て顔色|忽《たちまち》ち一変せり、「まア、何と云ふヅウ/\しい奴でせう、脅喝《ゆすり》新聞、破廉耻漢《はぢしらず》」
 長谷川夫人も顔打ちひそめつ「ほんとに驚いて仕舞ふぢや御座いませんか」
 庭樹の茂《しげり》に隠れ行く篠田の後影《うしろかげ》ながめ遣《や》りたる渡辺老女の瞼《まぶた》には、ポロリ一滴の露ぞコボれぬ「きツと、お暇乞《いとまごひ》の御積《おつもり》なんでせう」
 篠田はやがて学生の群と別れて、独《ひと》り沈思の歩《あゆみ》を築山の彼方《あなた》、紅葉|麗《うる》はしき所に運びぬ、会衆の笑ひ興ずる声々も、いと遠く隔りて、梢《こずゑ》に来鳴く雀の歌も閑《のど》かに、目を挙ぐれば雪の不二峰《ふじがね》、近く松林の上に其|頂《いただき》を見せて、掬《すく》はば手にも取り得んばかりなり、心の塵《ちり》吹き起す風もあらぬ静邃閑寂《せいすゐかんじやく》の天地に、又た何事の憂きか残らん、時にふさはしき古人の詩歌など思ひ浮ぶるまに/\微吟しつ、岸の紅葉、空の白雲、映《うつ》して織れる錦の水の池に沿うて、やゝ東屋《あづまや》に近《ちかづ》きぬ、見れば誰やらん、我より先きに人の在り、聞ゆる足音に此方《こなた》を振り向きつ、思ひも掛けず、ソは山木の令
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