せられたることを深く感謝せずんばあらず、
 桜花雨に散りて、人生|恨《うらみ》多《おほ》き四月の廿一日堺兄は幼児を病妻に托して巣鴨の獄に赴《おもむ》けり、而して余は自ら「火の柱」の印刷校正に当らざるべからず、是れ豈《あ》に兄が余に出版を慫慂《しようよう》し、而して余が突嗟《とつさ》之を承諾したる当夜の志《こゝろざし》ならんや、只《た》だ「刑余の徒」たるの一事のみ、兄《けい》と余と運命を同《おなじ》ふする所也、
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枯川兄を送れるの日、毎日新聞社の編輯局に於て
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[#地から2字上げ]木下尚江


     一の一

 時は九月の初め、紅塵《こうぢん》飜《ひるが》へる街頭には尚《な》ほ赫燿《かくやく》と暑気の残りて見ゆれど、芝山内《しばさんない》の森の下道《したみち》行く袖には、早くも秋風の涼しげにぞひらめくなる、
「ムヽ、是《こ》れが例の山木剛造《やまきがうざう》の家なんか」と、石造《せきざう》の門に白き標札打ち見上げて、一人のツブやくを、伴《つれ》なる書生のしたり顔「左様《さう》サ、陸海軍御用商人、九州炭山株式会社の取締、俄大尽《にはかだいじん》、出来星《できぼし》紳商山木剛造殿の御宅は此方《こなた》で御座いサ」
「何だ失敬な、社会の富《とみ》を盗んで一人の腹を肥《こ》やすのだ、彼《あ》の煉瓦の壁の色は、貧民の血を以て塗つたのだ」
「ハヽヽヽ、君の様に悲観ばかりするものぢや無いサ、天下の富を集めて剛造|輩《はい》の腹を肥《こや》すと思へばこそ癪《しやく》に障《さは》るが、之を梅子と云ふ女神《めがみ》の御前《おんまへ》に献げると思《お》もや、何も怒るに足らんぢや無いか」
「貴様は直ぐ其様《そんな》卑猥《ひわい》なことを言ふから不可《いか》んよ」
「是《こ》れは恐れ入つた、が、現に君の如き石部党《いしべたう》の旗頭《はたがしら》さへ、彼《あ》の女神の為めには随喜の涙を垂れたぢや無いか」
「嘘《うそ》言ふな」
「嘘《うそ》ぢや無いよ、僕は之を実見したのだから弁解は無用だよ」
「嘘言へ」
「剛情な男だナ、ソレ、此の春上野の慈善音楽会でピアノを弾《ひ》いた佳人が有《あ》つたらう、左様《さう》サ、質素な風をして、眼鏡を掛けて、雪の如き面《かほ》に、花の如を唇《くちびる》に、星の如き眸《ひとみ》の、――彼女《かれ》が即《すなは》ち山木梅
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